イエスマンを作るための「洗脳空間」としての学校と利用方法、学校の本質

By | 2016年10月9日

※ 2016年10月9日記述 2016年11月14日追記

従順な人間を作るための空間としての学校

なにが就活なのでしょう?学問を差し置いて、就職活動を行わねばならない「先進国」って、どんなブラックジョークでしょうか?

つまり、学校とは小中高大、それぞれの学校において、企業にとって都合の良い、従順な、文句の言わないイエスマンを大量生産しているのです。

一昔前の輸出産業、製造業花盛りの頃の、人間オートーションの頃ならそれでよかったのかもしれませんが、今の時代、製造業は総崩れ、衰退真っ盛りです。それでも学校は変われないし、変わろうともしない。殺人的組み体操の問題を見ても明白ですが、学校に自浄作用はありません。

今、社会で求められているのは「自ら考える」人材であって、学校ではそんな人物を作ろうとはしていませんよね。では、なぜ自ら考える人材を育てようとしないのか、それをされると企業や社会にとって都合が悪いからです。


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学校は労働基準法を教えるべき

現在でも教科としての公民がありますが、あくまでも「先進国気取り」の、「知識」としての、どうでもいい空虚なお念仏として「社会は平等」と刷り込んでいるだけですね。

本来、労働基準法や、派遣法、それらによる雇用の不安定さなどの、卒業後すぐにでも彼らが直面する労働問題を教えるべきでしょう。

ただ、そんなことを教えだすと、なぜ同一労働同一賃金ではないのか、といったことや、ブラック企業がなぜ世に闊歩するのか、など、社会の矛盾と真正面から向かわざるをえなくなります。そんなことは学校にはできません。

生きるため本当に必要な知識も法律も教えない学校、それはすなわち教員という事なかれ役人的体質の異形の空間での、産業界に従順な産業戦士、もしくはイエスマンを大量生産する工場と罵られてもしょうがないでしょう。


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今ある学校の「利用」方法

学校など「社会の不条理」を知るためにゆくところに過ぎません。本当に勉学の意欲のあるものはいくらでも自分で調べることができます。今やネットの時代、いくらでも情報は入手できる。

所詮、学校は社会の矛盾を痛烈に感じるための期間であって、更には上の学校に入学するためのやむを得ない期間、もしくは就職予備校でしか無いのですから、そこで何かを得ようとする事自体が無駄でしょう。

特に公立の学校教員など、いかに自分の生徒を無難に卒業させて、教員としての自分の生活を安泰とするか、ということを常日頃考えている、上司の顔色を常に伺っているヒラメのような人物の集団です。だからこそいじめ問題ははびこり、そして自分たちの地位を守るためにいじめをもみ消す。

明るい学校生活?何を寝言を言っているのでしょう。学校時代など、暗く、重く、どうしようもない、本当に忌まわしい期間としてあるべきことが自然なのです。

無論、そうではない、生徒の側に立つ、あるべき教員も存在します。私もありがたいことに、そのような志ある教員にお世話になったからこそ、今の自分がいることは事実です。

しかし、それはごく例外的事実であって、そんな人物はほんの数%です。

「学校は世の不条理を知るためにゆくところ」

そう、思うと少し学校が楽になることでしょう。学校で学ぶ「知識」とは、公式上の、タテマエのものに過ぎません。

本当に学校で学ぶべきは、この社会の不条理で、差別的で、どうしようもない、それを対外的に糊塗した、醜い空間が全国至る所に存在する、という「日本社会の縮図としての不条理さ」を知るための空間なのです。

学校に何か期待するだけ無駄です。学校など、どうしようもない期間なのですから、とっとと利用するだけ利用して、卒業して抜け出しましょう。そこで得た不条理は、日本社会の縮図として、今後も必ず役に立つのですから。


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