強欲の果ての日本社会の衰退と集団主義 「絆」という言葉の虚しさ

By | 2017年11月3日

為政者が称する「絆」や和風の言葉の虚しさについて

さきの東北大震災において、「絆」なる言葉が、やたらに流行しましたが、また、それと時を同じくして和風テイスト、もしくは、日本文化の自画自賛が流行っていますが、それらは現在起こっている問題を直視させないための極めてわかりやすいプロパガンダではないのかと思うのです。

もちろん当時は民主党政権であった事実は十二分に理解しています。

しかし、その民主党政権において、官僚機構は何ら人材の入れ替えが行われたのではありません。また、民主党政権はその政権担当に対する不慣れさゆえ、かなりの意思決定を官僚に頼らざるを得ない部分があったのでしょう。

また、官僚としても、「シガラミのない状態で行政を監視される」ことを避けたいがために、一刻も早く自民党政権に戻したい意向がその根底に働いていたのは明白な事実でしょうし、それこそが民主党政権下における、この「絆」なるプロパガンダを許容した理由といえるでしょう。

つまり、自分達の国はこんなに素晴らしいだから目の前にある問題を早く解決しなければならない、と思考停止させるための、極めて都合のいいフレーズではないでしょうか。

もしくは、衰退する国家としての、自画自賛による、戦時下のような文化的高揚、といったところでしょうか。

集団主義と為政者の思惑

「絆」というフレーズと、それと合わせて行われたのは無料奉仕としてのボランティアであり、本来、ボランティアは行政が主体となり被災者のための有料の雇用として行われるべきであると考えます。私は無料のボランティアは被災地の人々の雇用を奪う側面が強いものであると考えています。

つまり、それは為政者達は絶対に何が何でも出費を削減しようとするために国民の善意を期待し利用する、それらの思惑の裏返しが「絆」という言葉に繋がっているのではないでしょうか。

本来、原子力発電所を爆発させた東電は、関係者を徹底的に責任追求の上、企業ごと清算させ、その後、クリーンエネルギーを中心とする、新しい体制を作るべきでした。しかし、東電は誰ひとりとして逮捕された者はいません。それが「絆」という聞こえの良いフレーズの裏で行われた事実です。

広告


日本は困難に直面すると集団主義に回帰する

日本では震災後は「絆」など、耳障りのよりフレーズが多用されました。しかし、その結果としてこの社会は取るべきものが責任を取らず、ますます全体主義の色合いを強めたに過ぎません。

つまり、「絆」言葉は、「為政者が何もしない」為のフレーズに過ぎません。それは、為政者側の利権を守り、そのツケを国民に押し付けるための極めて都合の良いプロパガンダです。

つまり、この国は何らかの社会的な困難に直面すると、先の対戦の末期がそうであったように、集団主義に陥り、そして、思考停止に陥り、集団主義としての「本当の責任者の責任の回避」、が先の震災において十二分に示されたのではないでしょうか。しかも、それは民主党政権下においてですら、です。

※投げ銭(寄付)のお願い※
「警鐘と現象」を応援して頂ける場合、以下のような方法があります。 
・EメールタイプのAmazonギフト券  15円より投げ銭が可能です。 (info[at]keiandgen.net)
 ※一定額以上で記事リクエスト受付けます。
・Amazon商品のアフィリエイト経由での購入   ・楽天商品のアフィリエイト経由での購入
アフィリエイトについては、上記リンクより商品を購入すると、その購入代金の数%が「警鐘と現象」 に寄付されます。
    ブログランキング・にほんブログ村へ    


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)