元障害者 支援施設職員 植松聖容疑者が偽善的社会への疑問を殺人で問う理由

By | 2016年11月15日
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障害者殺害という語れない問題

正直なところ、別に支援施設職員であった植松容疑者の行動に対して、それについて社会がどうのこうのと言う必要ないのではないかなと思います。

むしろ親には障害児については、その人生をどのようにさせるべきか、生殺与奪を含めて選択件を与えるべきである私は考えます。

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障害児が生まれた際に、それを「自己責任!」と罵ることが許容されてよいのか?

これはおそらく今回の事件について誰も書こうとしませんが、重度精神障害者は今後確実に出生割合としては増えるでしょう。それは、東北大震災の原発事故の影響によって。

実際問題として、では障害者が生きていて何の役に立つのか、世の役に立っているか、という問題、それは支援施設職員の雇用であったり、それに伴う社会制度の役所の事務的、実務的作業の発生、彼らの天下り先や、就職先であったりという極めて間接的な要因ではないかと考えています

結局のところ、例えばそれは障害者行政とは、日本が「先進国」であるということを証明するためだけの単なる「偽善としての」演出のような状態ではないか、とすら思ってしまうわけです。

NHK の調査では出産前の夫婦に、出生前診断で子供が障害児が生まれるとわかった場合、場合96%の夫婦が堕胎を選択する、という現実があるのも事実です。

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重度障害者への偽善の本音と建前

今回の事件について極めて不自然に思う点が数点あります。

ブラック企業やサービス残業が当然として存在し、その結果として精神を病み過労自殺、などというおぞましい事柄当然のように生じているこの社会で、 障害者の人権が、などという意見は全く説得力が無いものと、思ってしまったのは私だけなのでしょうか

それらの普通の国民の権利すらもまともに守られていない国家において、重度障害者や障害者の権利を守る、などということは偽善も甚だしい。そのようなことが今回の植松事件の極めて不自然に思う原因の一つです。

また、例えば毎年の8月15日の敗戦の日にお涙ちょうだい戦争反対番組が垂れ流されますが、そこでは政治の無作為としての敗戦後、後何年も続いた地獄のようなシベリアへの抑留や、満州からの引き上げ時の女性たちのレイプ被害などは無視し、「都合の良い加害者」と「都合の良い被害者」取捨選択して放送する、それと似たような、「障害者問題」の建前だけを垂れ流しているような気がするのです。

重度障害者に社会はどのように対応すべきか

現実的問題として、今後も障害者は生まれてきてしまうのですから、出生前健康診断の100%の受診義務付け、それでもなお、障害者が産まれてきてしまったのであれば、それは社会の責任として、国家が責任をもって支援施設などで障害者の人生を支える、もしくは面倒をみる、といった方向にシフトしてゆかなければならないのではないか、と考えます。

例え自称であったとしても「先進国」であるのであれば、そういった、建前のみの議論ではなく、むしろ、第二、第三の植松容疑者を生まない社会を根本から深刻に考える必要があるのではないでしょうか。

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