日本の自画自賛する内向きの社会と社会成長の限界との関連について

By | 2017年9月19日

成長を放棄した日本社会

日本の自画自賛の傾向は、21世紀に入ってから目につくようになりましたが、それらの心理の深層とは、成長を放棄した、もしくはその限界が来たことに尽きるのではないでしょうか。

一定以上の年齢の方であれば理解して頂けると思うのですが、日本の庶民の文化的な下敷きとなったものはヨーロッパの文化であったりアメリカの文化であったりします。

それは純喫茶と呼ばれるような喫茶店において、その内装はヨーロピアンテイストを日本流に解釈したものが90年代の末頃までは一般的でしたし、また別の例として、反社会的勢力が乗る車で例えるならば、80年代の後半まではアメ車と相場が決まっていました。90年代以降はベンツやBMWといったヨーロッパ車になり、それが2000年代に入るとプリウスやアルファードなどの国産車になっています。

また、80年代及び90年代とはトレンディドラマにおいてニューヨーク○○物語などと言ったような、無条件にアメリカの肯定などを行っていた事実があります。それは、すなわち海外への憧れがあった、という状況があります。

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自画自賛文化と成長限界

それらの、海外の賛美と、2000年代における日本の自画自賛文化、とくに日本のバブル崩壊以降における、失われた20年と言われる年代を考えてみると、日本が自国の文化に対し、「誇り」と称する感覚を持つようになったのと、長期の不況は一致します。

もはや、どのようにしても自国が成長しないことに国民が気づき、諦めた、もしくは、もはや成長の意欲が無くなった事の裏返しとしての日本文化の無条件の肯定なのではないでしょうか。

無論、そこにはインターネットにおける大量の情報の流入によって、これまで「憧れ」として旧来のメディア、すなわち、テレビや雑誌などで与えられてきたアメリカやヨーロッパについて、それらの国の実態や社会問題を誰もが知ることができるようになった事実も大きいでしょう。

しかし、他国のデメリットを知ったとしても、自国の産業が健全なる成長の過程にあれば、それは他山の石として、自国の反省材料にすべきことですし、そこから学ぶべきことも多かったはずです。

しかし、日本は「他山の石」どころか、自国の文化の自己満足的な肯定を始めたに過ぎませんでした。

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衰退としての日本社会

他国から何かを学ぼうとするのではなく、インターネットにおける情報を利用し、自分たちの地位が、まるで高いものであるかの様な勘違いをする行動に、日本は流れつつあります。

つまり、日本という社会の自画自賛体制とは、もはや成長を放棄し、他国から文化を学ぶ謙虚な気持ちすら投げ捨ててしまった結果としての日本の自画自賛、という状況と言えるでしょう。

もちろん、自国の文化は文化として、それを知る必要性は理解します。しかし、それを必要以上に持ち上げ、自画自賛の賛美をすることは、それは「老いた」国家の無様な姿と言わざるを得ません。

よく、テレビ番組などで「外国の人が『日本はここがすごい!』」などと褒める番組がありますが、その前にサービス残業をさせているブラック企業に、外国の人を連れて行ってみてはどうでしょうか?ブラック企業こそが「リアルな日本」でしょう?無為無策の行政の結果、同調圧力、日本の醜い部分の代表例です。

まあ、日本は「老いて」、老眼になり、「近くにあるもの」は見えにくくなっているのでしょう(苦笑)

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