「~かもしれません」「~のようですね」、という逃げ
なぜこのような曖昧な記事が作られるのかと言うとそれはseo的にそのような記事が検索に引っかかりやすいからという理由があります。
つまり本人がウェブで調べたことを、その者の言葉で書き直す、それはブログを書くのではなくリライトしている行為に他なりません。
そのため、ウェブ上にはどこかで見たような情報が溢れることになります。
他人の言葉をパクってまで小銭がほしいのでしょうか
なぜそのようにseo対策をするのか?それは検索によって多くの観覧者が来た場合、それによってアドセンスの広告などによって金儲けことができるためです。
また事実、googleとしては多くの情報を載せている、一定の文字数があるサイトが良いサイトであるというのが現在分かっているseoのロジックのため、似たようなサイトが満ち溢れるということになってしまいます。
確証が得られないなら自分の考えを書け
そのような情報は、私からしてみればウェブの汚染をしている以外に何物でもないと考えます。わざわざネットに出ていることを、再度書くのではなく、自分の考えを書けばいいのではないでしょうか。
また、ネット上の非常に好ましからざる点として、結局その商品をヨイショ褒めることによってアフィリエイト収入などを得ることができるため、非常に特定の傾向、つまりメリット専攻した情報がweb上に出てくる傾向が強くなります。
観覧者が求めているのは、そのようなメリットばかりの情報ではないはずです。webというものは何を書いてもよい空間なのですから、なぜそこに自分の言葉でその商品やサービスについての思うところを書こうとしないのでしょうか。
なぜ小銭稼ぎのために、他のサイトと大して変わらないな内容を喜々として書くことができるのか。それは日本人の精神的貧困ともいえる状況かもしれません。
考えることを放棄したウェブに未来はない
それらの考えることを放棄したwebとは日本の言論のお寒い状況の一端を表しているものかもしれません。
日本人は多くの場合、会社で上司の顔色伺い、そしてサービス残業をしているのですから、せめてインターネット上くらい誰の顔色を伺うこともなく自分の言いたいことを言えば良いと思うのですが。
もちろん日本語という言語が極めて特殊な言語であり、たった1億数千万人しか使っていない言語なのですから、ナチュラルに言論での自主規制を産んでいる、と言えるかもしれません。
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