
※この記事を書いていて、ふと気づいたのですが、某日蓮系の巨大宗教にも坊主も戒名もありませんが、私は彼らの意見に賛同するものではありません。念のため。
仏教における廃寺は当然の流れである
葬式仏教と罵られる日本の仏教会ですが、最近檀家の減少などで廃寺が増えていると聞きます。
まあそれはやむを得ないでしょう。そもそも、なぜ仏教において戒名で墓が必要なのか、それ自体が疑問を持たざるを得ないことです。
しかも戒名などといわれる、漢字の羅列を坊主がひねり出し、それに対して何十万何百万と請求する、そしてその坊主は宗教法人であると言う名のもとに税金を1円たりとも払おうとしない。
そのような、自助努力の欠片も見えない伝統は、滅びるべきして滅びる状況にあると思います。
おかしな、おかしな仏教の現状
石で作った墓や漢字の戒名を仏教の創始者、ブッダがそれらを作らねば地獄に落ちる、とでも言ったのでしょうか。ブッダはインドで生まれましたが、ブッタの墓は明確には存在しませんし、また当然ながらブッダは漢字も読めません。
また、参考程度に書いておきますが、本来の仏教において天国と地獄という思想すらありません。それを、いつのまにか日本の仏教はそれらの概念をひねり出し、ブッダの教えに背いた異端とも言える様な宗教思想を日本に広めたのです。無論、ブッダの唱えた仏教に「念仏を唱えれば幸せになれる!」「仏に背くと地獄に落ちる!」などという教義は一切ありません。そもそも念仏そのものが後付の概念ですから。
無論、それは仏教界の責任のみではなく、封建制の当時の為政者たちが仏教を民衆を管理する道具として使おうとしたことが最大の原因であるのは確かですが。
しかし、封建制の時代が終わったのは今から150年も前のことですし、150年間、それらの坊主丸儲けの体制が続いている事自体に日本の精神的な進歩が見えないと言わざるを得ません。
仏教の本来のある姿に戻れ
さて、話を元に戻します。私は廃寺について、全く歓迎すべきことであると思います。少なくともそれらの悪しき伝統が終焉する、という意味においては、です。
仏教とは本来の輪廻転生の道を外れるための、宗教的、思想的な場として復興すべきではないでしょうか。
日本にはそもそも宗教という概念ではなくシステムという概念であった
無論、私は無差別テロを行ったオウム真理教が原始仏教やヒンドゥー教をベースとしたカルト宗教であることは十分に理解しています。
それらのカルト宗教が日本に複数存在するということも、また、それらのカルト宗教は仏教や神道といったものをルーツとして用いていること、それは日本という国は、仏教にしても神道にしても、宗教ではなくシステムとして使っているために、そこに思想がないように思えてなりません。
そうであるからこそ現在の廃寺の危機に瀕している仏教界は、本来あるべき思想を徹底的に追い求め、人間を幸せにするための宗教の本来の役割に戻るべきです。
無論、これまで時の為政者に甘やかされ、その伝統の上にアグラをかいてきたのですから、元の思想という意味の宗教に戻ることは極めて困難でしょう。しかし、困難を求め、そこに人間のあるべき姿を探ろうとする姿こそ、宗教の本来的な存在ではないのでしょうか。
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