
再チャレンジすべきは社会だ
為政者側は、再チャレンジと何かの一つ覚えのように繰り返しますが、私はこの言葉自体に社会の欺瞞が詰まったものであると考えます。
再チャレンジとは一旦何らかの失敗、もしくは瑕疵を犯した状態から、また復活しよう状態を指します。
特にそれは今の社会においては「就職氷河期」の派遣社員に向けた言葉なのでしょうか?
では、現代の社会で、企業が派遣労働などの不当な雇用をしている問題について、社会がきちんと対応できているのか?それは全く出来ていません。
また、企業の労基法の尊守は事実上まともに行われていませんし、それらに実行的な対策が行失敗しれているとは考えられません。
それらはすべて社会の責任を放棄した事に他なりません。
再チャレンジなどと言うのであれば、それらの雇用環境の改善やサービス残業の厳罰化など、まずは社会が再チャレンジをするべきではないでしょうか。
本来再チャレンジをしなければならない者が、そのチャレンジを放棄し、社会的に矛盾のしわ寄せとして、弱いものに対し、また再チャレンジをしろ、と迫ること自体が極めて欺瞞的です。
人生、ポジティブ思考で変われば苦労はない
また、再チャレンジという言葉のネットワークビジネスまがいのポジティブさ加減そのものについて、私は非常に疑問をいだきます。
世の中、前向きに明るくなれば、問題が万事解決するものではありません。
明るさの押し付けはそれはまるでマルチビジネスネットワークビジネスのような雰囲気を感じさせます。もっとも、日本国ではネズミ講まがいの年金システムがありますが。
再チャレンジを押し付ける者たち
日本という国は都合が悪くなると、やたらと日本精神だの、日本人の魂だ、などという、ありもしない空想上の概念を声高に叫び、最後の最後になると責任者は逃げおおせるというのが歴史上の事実です。
言うまでもありませんが現在のアベ首相の祖父岸信介とはA級戦犯であり、そもそもA級戦犯の孫が親の七光りで首相をしているという時点で、もはや日本の文化レベルの底の知れた状態となっています。
そもそも、再チャレンジなどと言っている、当の本人が、二世議員、三世議員など「ええとこのボンボン」寝言を吐いているに過ぎないのですから。
彼らには人生でが絶望を味わった事などないでしょう。すべて親の金とコネで解決してくれるでしょうから。
私としてはそれらの二世、三世議員のボンボン達に落選の絶望を味あわせ、心を入れ替え国民のために働く政治家となり、「再チャレンジ」していただきたいと考えております。まあ、無理でしょうけれど。
なぜ、このような再チャレンジなどという言葉がなぜもてはやされているのか、それは1998年の小泉政権における派遣業界の製造業解禁に端を発する若者貧困化と、それに対する為政者の責任を取りたくないがための言葉遊び、もしくは先進国ゴッコとしての再チャレンジ制度というアリバイにすぎません。
本来あるべき就職支援とは
えもし本当に再チャレンジ、などと言うのであれば、社会が責任をもって就職はできるまでバックアップする、生活が安定するまで社会がバックアップする。
もちろんそれは生活保護や職業訓練、また、それよりもさらに重要なのは就職後にその企業が違法なブラック企業ではないかを監視する、など、いくらでも取りうる対策はあるはずです。
ましてや、少子高齢化で労働力人口が減少する社会で、いまだに望む者が正社員となれないのは、それ自体がおかしなことでしょう。
それらを一切行おうとしないのは、結局のところ日本社会とは、掛け声だけは一流でそして実際のサービスはお粗末極まりないと言う、先進国ゴッコの精神的な貧困さそのものを表しているものです。
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