集団主義と日本 日本人の精神構造、行動の根本は三千年間進歩していない

By | 2019年6月6日

日本の根底にある集団主義

私はこのブログに繰り返し書いているのですが、日本の社会問題の根底の少なからぬ原因として、集団主義があると考えています。

それは学校での軍隊的な教育における運動会であったり、学校生活という名の集団行動であったり、または、社会においても「空気を読む」、もしくは同調圧力によるブラック企業の存在、または裁判などにおいて異常なまでの検察側の勝訴率などが集団主義の弊害の実例として、あげる事ができます。

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集団主義の時代は終わった

確かに経済成長かの1960年くらいまでは、国民の幸せはひとまず脇に置いておき、国家として発展し、その上で民に富を配分しましょう、という考えは一定程度は理解できます。

それらは中間層を増やす政策として1990年のバブル崩壊まで行われてきましたが、2000年代以降においては、派遣労働、非正規労働の増加などに代表されるように、「正社員、公務員などの特定の集団の利権を守る」方向にのみ堅持され、集団主義が悪い方向にしか作用していないように私は思えてなりません。

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集団主義の原因

では、なぜ集団主義の考えがこの日本国にはびこっているのでしょうか?

それは、このように考える事はできないでしょうか。

日本という国は農耕民族で大陸から栽培稲作が伝わってきた時、土地を開墾し、村人総出で、田植えや稲刈りを行っていました。

つまり、集団の行動でスピードを上げて作業しなければ、農作物の不作、すなわち、自らの命に関わるという歴史が存在したことは事実であり、それらの行動様式、すなわち集団主義が現在に至るまでDNAに組み込まれているのではないでしょうか。

とはいえ、農業が機械化されると、それで必要であった集団主義の必要性は薄れ始めたはずです。しかし社会における日本の集団主義のマインドは全く変わっていません。

本来、集団主義は技術発展と理性によって克服されるべきものでしたが、それが未だに、稲作が伝わった3000年前と何一つ変わる事なく続いています。

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集団主義は時代に取り残された思想

現在でも、それら集団で行っていた稲作文化が全く抜けきっていない、まるで「会社が米を作っている」かのような状態です。

それらの集団性は日本人のDNAに刻まれた部分を社会が悪用していると見る事も出来ますし、稲作文化時代から全く日本人の精神の根底は進化していない、とも見る事ができます。

先の大戦において日本は世界でも類を見ない「最初から生存を放棄する」作戦を多数行いましたが、それらは集団主義の究極の結果として見ることができます。

また、戦後の高度経済成長期も、集団主義における生産能力の向上によって物量的に世界を圧倒した事に他なりません。それらには全て集団主義が関わっていると考えうるでしょう。

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集団主義の害悪としての現在の日本社会

さて再び21世紀の日本に戻ります。集団主義は20世紀のある時点までは、それでよかったのかも知れません。

日本が工業製品の輸出国を主たる産業とした時代は、右にならえで工場で何らかの製品を作る、そして、それを輸出する産業が社会の富を形成し、社会の発展が成り立っていたのですから。

ところが、現在では世界の工場は中国になり、そして日本の製造業は壊滅的ともいえる状態です。

確かにトヨタの自動車などの分野は分野はまだ若干強みがあります。しかし、それしたところで自動車メーカーにとって都合のよい消費税導入など、政治の庇護下においてのみ、成り立っているようなものでしょう。

余談となりますが、消費税は「輸出をする産業」においては、「製品を輸出した場合」、その製品に対して「消費税相当分」が国家より企業に返還されます。 つまり、消費税率が上がれば上がるほど自動車などの輸出分野は儲けを出します。

なぜ、「連合」などの大企業の労働組合が消費税反対を主張しないのか、 なぜ経団連などが消費税をゴリ押しするのか、それは、消費税は輸出産業にとっては極めて都合の良い制度だからです。

集団主義の次に求められる思想と個人の行動方法とは

さて、では集団主義を「脱しなければならない」社会において、必要とされる考え方とは何でしょうか。

それは、自分が個人として社会をどのように捉え、そして、どのようにその社会と対処して生きていくのか、ではないでしょうか。

もちろん学校の教員はそのような事を教えないでしょうし、教えることもできないでしょう。また、それは企業においても同様です。特に、現在でもブラック企業が「存続できる」のは、集団主義の邪悪な利益に他ならないのですから。

日本の集団主義とは、3000年前から全く進歩していない考えである、と理解する事によって、これから自分はどのように生きてゆくべきかを考える際に、大きなヒントになると考えます。

今はインターネットが存在するのですから、あらゆるテーマについて、自分で調べる気さえあれば、入口となる知識を得る事ができるのですから。

しかし、それでも変わらず、今後も日本人は集団主義を受け入れるでしょうし、それは当面の間、変わることはないでしょう。それが明らかな失敗であると分かっているにも関わらずです。

とはいえ、この衰退する日本社会において、3000年前の人と同じような行動をすることは失敗であると事は社会が示しているのですから、我々は新しい思想を自ら切り開く必要があります。

無論、それは、これまで集団主義に慣れきっている場合、大いに困難を伴うことかも知れません。

しかし、社会の失敗を認識するほど、強制的に個人の意識と行動とを求められる時代に差し掛かりつつ有るのかも知れません。

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集団主義と日本 日本人の精神構造、行動の根本は三千年間進歩していない」への1件のフィードバック

  1. アウス

    なぜ日本が集団主義にこうまで凝り固まっているのか、私はもう一つは日本が世界でも有数の災害大国だからだと考えます。
    日本は世界でも有数の地震大国ですし、おまけに夏から秋にかけては台風の被害にも見舞われる、文字通り年を通しての災害の危機に見舞われてる国です。
    そしてどのように農業などを機械化したとしても、自身一発、洪水一発ですべてが文字通り水泡に帰してしまう。今ですら自然災害相手に人類は無力なままです。故に諸外国と異なり、日本では個人という観念が生まれにくい否、生まれるだけの土壌に恵まれていなかった、だからこそ集団主義は今もまだ日本人の根底に蔓延るいえ、そうでなければ社会を維持できないが故に残ったと言えないでしょうか。
    欧米などは日本と異なり比較的自然災害とは無縁の地域が多いです。だからこそ個人という観念が成熟するだけの余地もあったのではないかと。
    しかし日本では、その環境も込みでやはりこれからも集団主義は続くと感じます。

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