
国益、免罪符、もしくは、思考停止
最近、保守思想がはびこっている嫌な世の中ですが、「国益」という言葉が一人歩きをしているように見えてなりません。
「国益」という言葉自体が、胡散臭くそして、いかがわしい雰囲気を漂わせている言葉です。
「国益」という言葉を使っている者は、その議論の裏には何らかの意図、そして、自分達のイデオロギーが隠れている、そんな指標となるべき言葉がかも知れません。
何十万人者若者が「国益」のために命を奪われた
先の対戦では何十万人もの若者が犠牲を強いられました。保守主義者達はアジアの解放などと、詭弁を使って覆い隠そうとするのでしょう。
しかし、どのように綺麗事を言ったところで、多くの若者が犠牲にならねばならぬ「国の利益」とは、それはもはや国の利益ではなく何をどう考えても、社会の重大な損失以外にありえません。
戦争に負けるとわかった時点で、いかにしてその「次」の段階を考えるのか。それを行うことのできない社会は、今の経済的敗戦の進む社会と重なる部分があります。
もし本当に「国益」を考えるのであれば、先の対戦において、戦争は負けるとわかった時に、より多くの戦後復興のための人員、つまり、若者達を温存し、そして、戦争責任者を自発的に処分する行動があってしかるべきでした。
しかし、この国が行った事とは最後の最後まで悲惨な抵抗を繰り返し、最終的に原爆を落とされ、人類の悲劇を引き起こすことに消極的に関与したに他なりません。
また、今ではその原爆を落としたアメリカに対し、無条件に尻尾を振る有様です。
国益なら、隗より始めよ
「国益」という言葉を為政者が用いるのであれば、まずは自分の給料を削減してみてはどうでしょうか。
国会議員に給料を年間に数千万円も与える事自体が、まず「国家としての利益」に反する行為と言えるでしょう。
法律を改定すれば、今すぐにでも何十億、何百億円もの財政を作り出す事ができるのです。
事あるごとに消費税を増税しようとする、もはや彼らの存在その者が国益とは反する存在なのではないでしょうか。
思考停止フレーズに踊らされないために
国とは何か、すなわち、それは国民「個人」の集団が国です。個人の幸福すら無視されている状況で「国家の利益」などありえません。
「国益」響きの良いフレーズの裏には為政者達のコネと利権と宗教的信条が見え隠れします。
特に、社会の衰退状況だからこそ、為政者たちは「大げさな」「聞こえの良い」フレーズを叫びたがるのでしょう。
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