学習塾という醜い日本社会の象徴、学歴心中主義の箱モノもしくは社会的成長の放棄としての光景

By | 2022年2月17日

学習塾は醜い日本の光景そのものである


学習塾とは正直、現在の醜い日本社会の象徴のような存在ではないかと考えてしまいます。

結論として書くならば、学習塾とは金持ちの親の子供はいい大学に行く、そして、貧しい親の子供は、貧しい状況に叩き落とされる貧富の再生産もしくは、貧富の拡大を行っているに過ぎない存在ではないかと考えます。

また、本来、学校とは勉学を行うべき場所であるにも関わらず、塾と言う存在が必要であること、それ自体が学校が本来行うべき業務を遂行できていない事にほかなりません。

自らの業務の遂行ができていない教員や行政はしかるべき罰を受けるべきだと考えます。

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決して勉学を否定するものではない

お断りになりますが、私は決して勉学について、それ自体を否定するものではありません。

資源のないこの日本という国家においては、人を育ている事が最大の投資であり、そして、最も確実な投資先と言えるでしょう。そのような中で学習塾が乱立し跋扈する状態とはすなわち、社会における教育の責任を放棄したと同義語です。

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貧富の格差の拡大を肯定する者達

詳細は書きませんが、私は西日本のある地方都市に住んでいます。そのような地方都市ですら学習塾が乱立しています。小学校、中学校、高校、そして、大学予備校生。なんと醜い光景でしょうか。

学習塾で勉強する勉強するという、その言葉、フレーズを1つとってみれば聞こえの良いことかも知れませんが、では、お金のない親達の子供は一体どうなるのでしょうか?

お金のない子供達の親は実業高校に行って、そして、そのまま働け、というコースを強制されるのでしょうか。

お金が無くとも、努力をすれば勉強は報われる、そんな言葉が日本社会ではびこっています。

確かにそれはある意味では事実かも知れません。しかし、そのような言葉を使う者達は、ごく少数の極めて稀有なケースを、まるで、それが普遍的なケースであるかのように取り上げプロパガンダとして用いていることが多いように思えてなりません。

塾の乱立する日本社会の光景とは、金さえあれば学歴でさえもある程度買う事ができる、まさに新自由主義社会そのもの醜い姿と言えるでしょう。

人材しか資源がない国にも関わらず、その人すらも金儲けの道具、そして、貧富の格差を広げようとする、そんな輩達が多く存在する、そんな社会に未来があるとは到底思えません。

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そもそも論としての進学のあり方への疑問

そもそも本当に小学校、中学校、高校、大学とストレートで進学せねばならないものなのでしょうか。

一旦、高校を出た後に数年間働き、その後に大学なり短大なり専門学校に入った方が社会の矛盾や、実務面での経験が生かされ、より深い学びができるのではないかと考えます。

また、大学などにしても、一旦、社会に出てある程度の社会的経験や社会的な常識を身につけた者に勉学を教える方が、よほど大教員達や学校にとっても実り多い結果が出るのではないでしょうか。

とはいえ、現実的には数年間働いても大学に入学し、卒業しうるだけの賃金を多くの場合は得ることができない、それは理解できますが、もう、その時点でこの社会、お先真っ暗と思ってしまいます。

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