
なぜ人が死んでいるのに簡易裁判所での裁判なのか
私がこの電通の事件の裁判を見て、非常に違和感を感じざるを得ません。
マスコミでは電通が裁判所に引きずり出され、電通の社長が罪を認めたことをクローズアップし、事件が解決したかの様に伝えます。
しかし、電通の社長が出張を命じられたのは、簡易裁判所であり、本来、簡易裁判所とは軽微な事件を扱うための裁判所にすぎません。
また検察側の当初のもくろみでは、裁判そのものを非公開として行い、即時の判決を求めていた、という有様です。それを裁判所が公開の法廷での裁判とするよう、指導した、という流れがあります。
ちょっと信じられません。人が死んでいるにもかかわらず、非公開裁判、かつ、即時の判決を出すことを目論むとは、いったい、この国は人の命をどのように考えているのでしょうか?
ちなみに余談ですが、簡易裁判所や地方裁判所などの定年間近の裁判官は比較的リベラルな判決を出すことが多いと言われます。それは逆に言ってしまえば高等裁判所や最高裁判所の判事になりたければ、「お国にとって都合が良い判決を出すヒラメ裁判官」になることを強いられている事の裏返しであるのですが。
人が死んでも経営者は罰せられることはない
今回の電通の裁判で出された判決は、「たった罰金50万円」です。私はこのニュースを聞いた時に、耳を疑いました。
50万円ではなく50億円ではないのか?と。
電通のような規模、社会的影響のある企業が社員を過労死させたのであれば、当然、懲罰的もしくは社会に震撼を与えた事の責任を取らせることは、当然の社会的正義であると私は考えます。
それがたったの「50万円の罰金」。これでは世間のブラック企業に
「社員を過労自殺に追い込んでも、たった50万円払えば、罪は償われます!」
と、とんでもないメッセージを与えているに過ぎません。
企業のやりたい放題を黙認する行政の本音は何か
逆に考えると、これほどまでに軽い判決であるにも関わらず、なぜ、その労働基準法が一般的に適用されないのか。つまり、なぜ世の中にサービス残業やブラック企業、パワハラが満ち溢れているのか。
これだけ軽い判決なのであれば、労基署は積極的に摘発すれば良いのではないかと考えるのが自然です。労基法の判決が出たとしても、企業が潰れることはないのですから。しかし、為政者の本音は、別のところにあるのでしょう。つまり、
サービス残業やブラック企業、過労死、それらの問題を見て見ぬフリをすることによって、企業に「不作為」としての利益を与えている
との考え方が自然ではないでしょうか。
この国は産業振興と言う名のもとに働く者の権利を抑圧し、企業のやりたい放題を黙認してきました。その結果が現在の少子高齢化、労働力人口不足です。一体、どこの誰が派遣などで不安定な状態にもかかわらず、子供を産み、育てようとするのでしょうか。
また、現在の40代の人々、いわゆる「失われた世代」が多数存在しているにもかかわらず、彼らを見て見ぬふりをしていることも全く同じ原因です。
仕事で殺されないために
つまり今回の電通事件の判決で、企業は社員を過労自殺に追い込んでもほとんど責任を問われない、とてつもない判決がでた、私は考えざるをえません。
では、企業に殺されないためにはどうすれば良いのか。
それは自分の企業での行動を逐一全て録音、記録することではないでしょうか。現在amazonなどの通販を見ればボイスレコーダーは1万円以下の金額で買うことができます。しかも、そのボイスレコーダーは10時間以上の長時間録音が可能です。自分の働く時間の全てを録音することによって、後で「言った言わない」の不毛な議論を避けることができますし、また、自分が何時から何時まで働いたかの証拠も作ることもできます。
無論、それと合わせてタイムカードの撮影なども必要でしょうし、タイムカードが存在しない企業の場合は自分で手帳へのメモ、パソコンの起動ログなどを収集する必要もあるでしょう。
しかし、このお粗末な社会において、自分が企業に殺さないためには、ありとあらゆる予防策を取っておく必要があります。
自分で行う予防策があるがゆえに、冷静な精神を保ち、自分の身に危険を感じた場合には、即座に労働基準監督署への証拠の提出、などの公的な対応や、会社を辞める選択を行うことのできる精神的余裕を保つことができるのではないでしょうか。
無論、そのためには日々の貯金も必要ですし、「明日、会社をやめた場合でも『とりあえずは生活できる』生活の設計」は必要ですが、この、あまりにもお粗末な社会を見ていると、自分の身を守るのは自分しかありません。
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