
快楽主義としての人生
人生の目的は何か、などと高尚な事を論ずるつもりはありませんが、人生の根本として、まずは自分が楽しい人生を過ごすことを第一の目的と考えても良いのではないでしょうか。
自分のしたい事を追求すればいい
人生という長いスパンにおいては、自分を中心に考えれば良いのではないのかと考えています。ただ、「楽」と「快楽」は違う、とも考えています。
「楽」は、安楽、などの言葉に代表されるように、堕落、怠惰、などの言葉を置き換えとして使用できるような、現在の努力を行わない、受け身としての安楽です。
それに対し、私が求めたいのは「快楽」のほうです。
快楽とは、すなわち。
- 美しい光景を見る事。
- まだ見ぬ光景を見る事。
- 自分の知的好奇心の分野を広げる事。
- 美味い食事を楽しむ事。
- 気の会うパートナーと時間を過ごす事。
つまり、自分が求めようとする方向にのみ、自分の情熱を注げばよい、と思うのです自分が楽しい、と思う方向に向くためだけに努力する、それは、自分の行いたい事をするための資金稼ぎとしての仕事の捉え方、もしくはそれらの仕事は日々のルーチンワークとして、適当にしておけばよい、という選択肢すらアリだと思うのです。それが問題にならない程度に、ですが。
現在、少子高齢化が進行しているため、以前よりは少しだけ自分の働き方というものについて選択肢が増えてきている状況があります。それは一時的なものではなく今後、数十年単位に渡るスパンでそれは続いていくでしょう。
たとえ、それが他人から見た場合、偏執狂的、ファナティックと言われようと、それによって、誰かに迷惑をかけない限りは自分が楽しい事を追い求める、それに夢中になる人生で良いのではないでしょうか。
人生はあまりにも短すぎです。そして、人生は東日本大震災をみるまでもなく、ある日突然に人生が終わってしまう事すらありえます。
それらの人生の儚さをマスコミは震災について、お涙頂戴物語で思想的マスキングを行い、考えない、従順な民を維持したいのでしょう。そうしないと社会は回りませんから。
ただ、今これだけ不安定な社会において、ひとつの企業で一生が終わる事は、ほぼ無いでしょうし、現在する企業のその多くはブラック企業です。
未来など誰もわからないので、根性や精神主義は自分の貴重な時間を無駄に使っているとしか思えないので、そのような事はしないことは鉄則でしょう。
常識を振り回す社会
未だにテレビや新聞は「理想の家庭」や「理想の働き方」をプロパガンダとして振り回しますが、それらは現在の社会性の崩壊の状態を認識させず、それを自己責任にすり替えるための宣伝に過ぎません。
そのようなプロパガンダを振り回すことによって、テレビやラジオのスポンサーに媚を売り、そして消費を拡大させてゆこうとする思惑が彼らの根底にはあるのです。
そのため、彼らの言う価値観を鵜呑みにして人生を計画する事は極めて危険な行為です。
テレビやマスコミが伝えている価値観とは、テレビを放送する側、すなわちスポンサーや政治家たちにとって、有利な価値です。彼らからしてみれば市井の庶民に社会問題を考えられる事など、あってはならないのでしょう
普通の人々が生活するうえで、マスコミの喧伝する価値観は、必ずしも自分の生活をプラスに導くものではない、と考えたほうが良いでしょう。むしろ、逆にマイナスに陥れようとしている、と考えたほうが正解かもしれません。
自分が、これぞ自分の思う正しい価値観だ、信ずるものが存在するのであれば、それを信じ、そしてそれに従って自分の生活を再構成する事も本当に素晴らしい決断であると私は考えます。
どちらにせよ、今後の社会で働く行為において、社会そのもの安定が失われてゆくのは目に見えていることなのですから、これまでの経済成長を行ってきた時代とは全く異なる考え方が、そもそもの人生の根底の考え方に求められるのではないでしょうか。
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