
パートナーの両親が墓を購入したのですが
私はまだ全然、自分の最期について考える必要などは必要のない年齢ですが、なぜかパートナーの両親が墓を買ってしまったため、今、私としては自分の墓をどうしようかな、と、考えていたりします。
そもそも、墓が本当に必要なのか? とさえ私は考えています。もし私が墓に入ることが必要になった時、私は墓に入るという行為は自分から望んで行いたいと思いません。
むしろ、それよりは自分の骨を故郷の山の麓にでも散骨してください、と本気でパートナーに伝えていたりします。
仏教における墓の曖昧な位置づけ
そもそも、日本における墓や、葬儀の際に出てくる僧侶などの存在は、何一つ仏教の根本的な裏付けのない行為と、私は認識しています。
もちろん、それは仏教の日本における各宗派が独自に意味づけ行っているのかもしれません。しかし、言うまでもなく仏教の創始者とはブッダです。
仏教において、その根本の考え方として、本来は仏教は悟りを開くことによって輪廻転生の輪から外れることが根本的理念としてあります。
もちろん私のような俗物は再度また輪廻転生するのでしょうけれど。ただ、それは科学的視点から見るならば、私の体を構成している物質とはこの地球上における何らかの物質が変化したことによってできたものですから、それが自分の最期を経た後、再び物質として地球を巡る、それはある意味では仏教の輪廻転生と言えるのかもしれません。
そのブッダが自分が最後を迎える時に、弟子たちに言ったのは
「私の葬儀など心配しなくていい。それは私を慕うものが行ってくれる。だから弟子たちは修行の道を、なお一層励むように」
と言った、と伝えられています。
さて、そのようにブッダですら自分の墓の必要性について一言も発しなかったにも関わらず、なぜか日本では仏教に基づいて墓がつくられる、という摩訶不思議な状況であったりします。
葬式仏教と墓
それは結局のところ、「葬式仏教」と言われるように仏教の寺と檀家との関係、つまり葬式で僧侶が念仏を上げ、四十九日で念仏を上げ、そして戒名を付けることによって、僧侶の懐に何十万円もの大金が入ってくる、そんな便利なシステムがあるからこそ、現在において墓が大増殖しているのです。
日本の集団主義とは、ブラック企業が「存在してしまう」原因であったり、また学校内でのいじめの原因であったりするのですが、そのような集団主義における日本の社会システムにおいて、自分の最後だけは個人、家庭単位の墓を持ちたい、もしくは分家であれば新しく墓を作ってそこに入りたい。そのように考える思想の根底にあるのかもしれません。
つまり、実は日本人は集団主義というものに、嫌々従っている、つまり今、社会で言われているような「忖度」もしくは「空気を読む」、そういったことを自分が存在しなくなった後は、それを拒否したい、という表れなのかもしれません。
つまり意思を持った集団主義例のへの抗議、とも言えるのかもしれません。
少子高齢化と墓の在り方
現実的にこれだけ社会が高齢少子高齢化し、そして今後段階の世代が最期を迎える時期が、いずれそう遠くない時に訪れるでしょう。
その際に、は本当に現在の僧侶の念仏、そして墓をつくる、そんな社会の在り方が成り立つのか、と私は著しい疑問として感じざるを得ません。
現実的には無理でしょう。
少なくとも私とパートナーの間で合意しているのは、どちらかに「必要が生じた」時には、永代供養を行う寺に納められるのが一番良いのではないか、との考え方です。
それは一定程度の「葬儀、墓」との関係を保持しつつ、いずれは自然に帰る、というマイルドな「墓との距離のとり方」であると考えるためです。
それは私とパートナーの間だけではなく、私の両親やパートナーの両親についても同じように我々は考えています。
もちろん我々には、お互いに兄弟がいるため、もしその兄弟がその墓の面倒を見ると言うのであれば、それはそれで意見として尊重しますが、少なくとも私個人については墓のそのものの在り方については非常に疑問を呈さざるを得ません。
スーパーなどを展開するイオンが行う、定額で僧侶を呼び、葬式を行う行為、もしくはAmazonの「お坊さん便」などもありますが、そのように、読経などを上げたいものが「一回いくら」という単位で行えば良いと思うのです。
それはある意味では、家に電子ピアノやギターを持ったミュージシャンを呼び、それらの楽器を演奏するような感覚に近いかもしれません。
むしろ、故人が音楽が好きであったのであれば、僧侶の読経を読み上げるよりは、故人の好きであった曲をピアニストやギタリストに弾いてもらい、その音楽をそなえる方が、よほど故人は喜ぶような気さえしてしまいます。
それは戒名についても同じです。何なら、「○○寺謹製 戒名作成ソフト」としてパソコンやスマホ対応で数万円程度で販売しても良いかもしれません。
今後の墓と葬儀のあり方とは
少子高齢化による物理的な人口減少と同時に生じることは、日本の風習が崩れざるを得ない時期がそう遠くない時期にくることも、また大きな事実でしょう。
そうなった場合、宗教的行事に何十万円も払うことができるのか、という現実問題が生じることでしょう。
そのような場合、良心的な価格、せいぜい数十万円程度で、どこかの墓に葬式などの行事も含めて、永代供養という形で形で納められる、もしくは散骨という形で物質的にも自然に還る。そのような選択が一般化していく、または、そう「せざるを得ない」のではないか、と私は考えています。
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