
東北大震災東日本大震災から8年が経過しそろそろ本東日本大震災でどのような事象が生じたか事を真剣に検討されるべき時期が来ていると思います。決して日本にとって良い影響ではなく、悪い影響であったと私は考えます。文化的な影響や、また、人々のマインドのあり方といった部分においてもです。
その中で私が東日本大震災の後に極めて不自然であると感じた絆というフレーズを思い起こさずにはおられません。
為政者が称する「絆」や和風の言葉の虚しさについて
さきの東北大震災において、「絆」なる言葉が、やたらに流行しましたが、また、それと時を同じくして和風テイスト、もしくは、日本文化の自画自賛が流行っていますが、それらは現在起こっている問題を直視させないための極めてわかりやすいプロパガンダではないのかと思うのです。
もちろん当時は民主党政権であった事実は十二分に理解しています。
しかし、その民主党政権において、官僚機構は何ら人材の入れ替えが行われたのではありません。また、民主党政権はその政権担当に対する不慣れさゆえ、かなりの意思決定を官僚に頼らざるを得ない部分があったのでしょう。
また、官僚としても、「シガラミのない状態で行政を監視される」ことを避けたいがために、一刻も早く自民党政権に戻したい意向がその根底に働いていたのは明白な事実でしょうし、それこそが民主党政権下における、この「絆」なるプロパガンダを許容した理由といえるでしょう。
つまり、自分達の国はこんなに素晴らしいだから目の前にある問題を早く解決しなければならない、と思考停止させるための、極めて都合のいいフレーズではないでしょうか。
もしくは、衰退する国家としての、自画自賛による、戦時下のような文化的高揚、といったところでしょうか。
このような一見聞こえのいいフレーズで選挙を思い出させていたりもします。
選挙の時に連発されるの中身のない空虚なフレーズ。
あのような空虚なフレーズを連発していったい何を訴えたいのか全く私には理解ができません。
選挙を行うのであれば具体的な数値目標や政策目標を掲げ入れば良い事ですワンフレーズポリティクスなどと一時期言われましたが、単純な言葉を繰り返す事によって人々の思考を奪っていく音する。
集団主義と為政者の思惑
「絆」というフレーズと、それと合わせて行われたのは無料奉仕としてのボランティアであり、本来、ボランティアは行政が主体となり被災者のための有料の雇用として行われるべきであると考えます。私は無料のボランティアは被災地の人々の雇用を奪う側面が強いものであると考えています。
つまり、それは為政者達は絶対に何が何でも出費を削減しようとするために国民の善意を期待し利用する、それらの思惑の裏返しが「絆」という言葉に繋がっているのではないでしょうか。
一途なっていう聞こえのいいフレーズに隠された憎い思惑を読み取らねばなりません。
本来、原子力発電所を爆発させた東電は、関係者を徹底的に責任追求の上、企業ごと清算させ、その後、クリーンエネルギーを中心とする、新しい体制を作るべきでした。しかし、東電は誰ひとりとして逮捕された者はいません。それが「絆」という聞こえの良いフレーズの裏で行われた事実です。
日本は困難に直面すると集団主義に回帰する
日本では震災後は「絆」など、耳障りのよりフレーズが多用されました。しかし、その結果としてこの社会は取るべきものが責任を取らず、ますます全体主義の色合いを強めたに過ぎません。
つまり、「絆」言葉は、「為政者が何もしない」為のフレーズに過ぎません。それは、為政者側の利権を守り、そのツケを国民に押し付けるための極めて都合の良いプロパガンダです。
つまり、この国は何らかの社会的な困難に直面すると、先の対戦の末期がそうであったように、集団主義に陥り、そして、思考停止に陥り、集団主義としての「本当の責任者の責任の回避」、が先の震災において十二分に示されたのではないでしょうか。しかも、それは民主党政権下においてですら、です。
集団主義に対してどのように対処していくべきなのか
実際のところ社会が、そのように待っていて特に企業などに勤めている場合にそこに、表立って抵抗する事はなかなか厳しいものがある事も確かです。
しかし、それらのおかしさ認識し、自分が備え得る対応する、その後貯金をしながら、慎ましやかな生活をする、社会の風潮に冷ややかな視線を向け自分の価値観を育てる、それこそが密かなる抵抗ではないのかと私は考えています。
結局、それらの集団主義的な風潮に自分が飲み込まれてゆく事は、自分も加害側にまわる事に他ならないのです。
事実令和時代のウイルスが流行っている現在は、食べて応援ではなく、今度は相互監視状態になっているのですから。
現在のウイルスに対する問題は、これらの3.11の絆というプロパガンダの延長線上として考え得る問題ではないかと考えます。
つまり、東北大震災と令和時代における疫病との繋がりは、この国の民族性の醜悪な部分をあぶり出したのではないでしょうか。
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