幸せという不鮮明で曖昧な、与えられた価値観についての考え方、対応方法

By | 2018年2月23日

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たかがブログ書きごときが、幸せについての考え方を書くなどと、おこがましいにも程が有るのですが、私の現時点での考え方の記録として記述します。こういう考え方もありますよ、という事で。

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隣の芝生は「常に」青い

人間は絶対に、自分と他人との境遇を比べてしまうものです。それは、おそらくどのような状態にあったとしても、であると思います。

それは幼稚園に入園した時から、そして、最後は老人ホームなどで自分の障害を終えようとしている時まで、必ず他人の状況もしくは、他人の持ち物と自分の状態を比べてしまうものです。

私はそうならないために、そもそも極力人と関わらない選択をしているような気がしますが。

もし、人生で人と関わらなくて良いのであれば、それはそれで、私は幸せな状況と考えてしまいます。なぜならば、自分と他人との価値観を比べる必要が全くなくなるのですから。

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不満と後悔のない人生など無い

人間は必ず後悔を伴う生き物です。

それは、他者から見れば、いかなる幸せそうな人生であったとしても、です。

後悔とは、それは、かつて、その行動もしくは、その生き方を自分が選択した時に存在した選択肢の、後々の痛みであるのかも知れません。無論、他の選択肢を選択していたとしても、多くの場合は同様の後悔を伴うのでしょうけれど。

もし、後悔のない人生を送りたいのであれば、何かに依存し、そして、その依存先に全て自分の人生を決めてもらう事が後悔のない人生かも知れません。

そのを一番わかりやすい例としては、宗教ではないでしょうか。私は必ずしも宗教そのものを否定するつもりはありませんが、宗教とは、それは多かれ少なかれ何らかの崇拝する対象、もしくはそこに生き方の規範とすべきする対象を見出すものです。

そして、それらの主張する行動規範へ世の中の事象を当てはめることによって、自分の境遇を理解する、もしくはあえて言い換えるならば、「考えることを放棄する」プロセスのシステマティックな方法として宗教はあり得るのかもしれません。

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ほどほどを開き直る

これは人間、歳を重ねると少しつづ分かるのですが、歳を重ねると自分の適性や自分の向いている事、向いていない事、そして、自分ができる事、自分ができない事がよく分かってきます。

そのような状況の中で、いかにして楽に生きるのか、を考えた場合、「ほどほどに生きる」のが一番良いのかも知れません。

それは、おそらくは何かとの引き換えとの人生になるでしょう。

結局、人間は「あれも欲しい、これも欲しい」という欲望があり、その欲望は、なかなか叶えられるものではありません。

何かを得るためには、必ず何かを失ってしまうものです。

例えば結婚をする事によって、社会的な地位を得ることができるかもしれません。しかし、その引き換えとして、自分の金銭的な余裕や、自分の時間は明らかに失われてしまいます。

とはいえ結婚したことによって得られるものもあります。苦境に陥った時に、自分を励ましてくれるパートナーが常に横にいてくれること、それは何物にも代えがたい幸せと言えるでしょう。

一例として、結婚というシステムをあげましたが、それは結婚だけではなく、仕事、自分の家、それら全てに共通して言えることでしょう。

幸せゴッコに巻き込まれないために

世の中とは、マスコミなどで理想の人生者を垂れ流すものです。

それは今の社会で分かりやすく言えば、結婚、出産、持ち家、子供を一流学校に進学させる。そんな、「わかりやすい」価値観でしょう。

しかし、それらの価値観の根底にあるものは、思考停止の商業主義といえるものではないでしょうか。

そのような価値観をマスコミが垂れ流さなければ、マスコミのスポンサー様である、様々な企業にとって、非常に不都合な社会になってしまうからです。

家族も持たない、新築の持ち家も持たない、仕事もお金よりも自分の時間を優先する、そんな考え方が世の中に「蔓延ってしまえば」、いわゆる経済大国としての日本は成り立たないでしょう。

そのような価値観に従順しなければならない事も絶対にありません。むしろ、そのような価値観に背を向ける方が、自分の人生としては楽しい生き方ができるかも知れません。

私は、そのような生き方は、それはそれで非常に楽しいと思うのですけど。むしろ、どちらかといえば、私の人生は、現実的にはそのような生き方になりつつあるような気がします。

つまり、マスコミの流す価値観とは、それは現在の為政者にとって都合のいい価値観にすぎないのですから。むしろ、それよりは自分の生きたい生き方を見つける、そんな試行錯誤をする人生の方が楽しいでしょう。

それらの、「世間に背く価値観」を自分で強く肯定するためには、やはり知識を身につける行為が必要になるのではないでしょうか。言い換えるならば、知識による自分の理論の補強です。

そのためには時間が必要です。また、それらの知識を得るためには書物を読むのが最適と言えるでしょう。

そのような自分の生き方を探す上で、ウェブサイトはあまり役に立つものではないかもしれません。

なぜならば、ウェブサイトは、私が主張するように、それは何かのサービスで物を売ることが目的であったり、もしくは何らかの隠れた意図が隠されたコンテンツである事が多々ある存在であるからです。

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