
一つの党派にこだわる事、それが思想を呪縛する
私は選挙の時には立憲民主党を応援に推薦しましたが、だからといって普段の生活において立憲民主党を推薦しているかと言えば、そんな事は絶対にありません。無論、私は自民党は全く信じませんが、しかし、批判的意見として参考にする事はあります。
また、いわゆるバリバリの「左」や「右」側の書籍を読む時もあります。
それらはネットでもいくらでも読めますが、古本屋などで108円の安価なものを買ってきて「エンターテイメント」として読むことがあります。
無論、何ら賛同はしませんが。別にそれは、「意見の多様性」として、両方の陣営の意見を読み、その上で自分の頭で考えれば良いと思うのです。
ある意見のみ「右派」でもよいのではないか?
私は共産党は好きではありません。
その理由とは、共産党の人々は、全員まるで金太郎飴であるかのように、同じ意見を持っている事に対して納得ができないためです。これは実は共産党だけではなく、共産党よりもさらに左と呼ばれるような人達も同じような状況です。
社会の発展において、ある政党や集団で、それらの集団の構成員全員が、全く同じ考えを持って行動するのは、それは明らかに間違った方向に向かってしまうと思わざるを得ないのです。
また、それが、いわゆる一般の市民の人から見た場合の強烈な違和感として存在するのも事実でしょう。
それが、いわゆる為政者のような「カネ」という一点にのみ共通事項のあるからこそ「議案に賛成」との底の見えた思想ではなく、「心から主張を信じている」という点で不気味さを感じるのです。
これは揚げ足取り的な議論となってしまうのかもしれませんが、そのような全員が同じような考え方を持つ実例として、ソ連におけるスターリンのような存在、もしくは戦時中の日本における全体主義的な考え方があります。
それらは奇妙にも敵国同士でありながら、行っていたことは実体的には同じである、すなわち一つの頂点に向かって全員が同じ方向を向くことを強要する事による社会の危険な状況を示したものです。
私の言論としてリベラルといいつつ、核武装に対する議論を行っても良いのではないではないのか、とさえ考えています。
別にメインの考え方はリベラルであったとしても、所々に右派の考え方が混じっていても全然いいと思うのです。
むしろ、その方が、より現実に即した考え方をする事ができるのではないでしょうか。
たとえ、ベースの考えがリベラルであったとしても、リベラルであるからこそ全員が同じ方向を向く必要はない、と考えるのです。
それこそが本来の、「人間の自由を尊重する」考え方ではないでしょうか。
疑う事。自分の位置を認識する事
ただ、右派諸氏が言う、「愛国」だの「国益」だのと言った言葉は、年収1000万円を超えてから論ずれば良い事ではないでしょうか。
そんな言葉や、それらの概念とは多くの場合、自分の生活とは縁遠い、既得利権者の更なる地位の強化と安定化に貢献し、利用されているように見えてなりません。
少なくとも現在の愛国だの国益だのという言葉と現在の社会における利権システムの批判がセットで行われれている議論は見たことがありません。
例えで言うならば、公務員の給料、縁故採用、特殊法人、天下りの問題などです。または、オリンピックでの箱モノの利権とでも言えるでしょう。
それらは愛国、国益と言った言葉が、彼らの利権を守り通すための隠れ蓑になっているのではないかと疑わざるを得ません。
少なくとも私は、現在の保守と呼ばれる者達の、その多くは、アメリカ追従型思想、かつ、現状利権の死守に染まっているとしか見る事ができません。
少なくとも私は先の戦争は日本の失敗であったと考えます。自国民を始めとする多くの若者を無駄死にさせた失敗としての戦争でしかありません。
しかし、右派の意見にも良い意見はある事もまた、事実であったりします。
それが例えば核武装という問題についてです。
もちろん私は核武装そのものに賛同しているのではありません。
あくまでも「極限の技術を絶やさないための、一つの考え方」として議論はされて良いのではないか? と考えます。
それらの、「自分の頭で考える」それが政治に求められることではないでしょうか。
もちろん政治的な問題において「答え」というものは存在しないかもしれませんし、それは一つではなく複数存在することも多々あるでしょう。
政治の問題は身近にある
とはいえ、まず問題とすべきは自分の生活ではないでしょうか。
私は「外国人労働者の導入」そのものについて反対しています。
もちろんこれは人種差別的な意図ではなく、
外国人労働者とは現代の低賃金労働を固定化させる存在である
ので反対をしています。
本来、外国人労働者の問題とは、保守が反対をしなければならないにもかかわらず、保守が反対をせず、どちらかといえばリベラル側の者たちが、「人権問題」という意味において反対をしている状態です。
それは、この国のねじれ状態、または思想の浅はかさというものが見えてくるものです。
そのような意味において、左右の本来あるべき考え方を学べば学ぶほど、リベラルと一定程度の右側の考え、すなわち、ハイブリッドな考えを求められるのではないか、と考えざるを得ません。
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