今回は個人的な思考です
たまにはこんな取り留めのない記事も。
このブログ記事は自分の考えをまとめるために書いてるので、世の中にはこういう考え方の人もいますよ、とご覧になっていただければと思います。
私が思う理想の生活とは、究極的には自分のペースを乱されないことでしょうか。
働くこと自体は完全には否定しませんが、必要最低限でいいと思っています。
とは言え仕事をしなければ人間は堕落していく一方であることも確かなのですが。
パートナーについては、できればいたほうがいいですよね、と言う感じです。
パートナーとは常にときめきを持っていたい、とも思っていますが、現実的にはなかなかそれは難しいのかもしれませんが。
趣味
趣味としては旅行をしたいですね。旅行して世の中の様々な光景を見たいです。
旅行は1人でゆく方が楽しいかもしれません。
パートナーと旅行に行くと、パートナーの醜い一面が見えてくることも多いですから。
もちろん楽しい時は非常に楽しいことも理解していますが
旅行については人間がアフリカで原人が生じた時から新しい世界を探求することをDNAレベルで刷り込まれているのではないでしょうか。
それは人間の本能なのでしょうそれはいずれ地球と言う星が消滅する際に、新しい惑星に移住する、そのための人類の究極の生き残りのための本能と言えるでしょう。
仕事についてもう少し
仕事で1番幸せなのは、自分が働きたい時に働き、そして経済的に不安を感じることのないだけの資金的余裕があるという状況ではないでしょうか。
一定程度の資産的余裕があれば、逆境に陥ったとしても冷静な判断をすること比較的可能なのですから。
もしくは別の考え方としては、自分の住む場所が安定していて、かつ、そこで自分が仕事をある程度の量をコントロールすることができる、つまり仕事のスケーラビリティーを求めているのかもしれません。
子供について
子供がいる方が社会的な評価が高まるのかもしれませんが、実際のところ、あまりにも子供に手間がかかりすぎますよね。
それは子供という人質で社会への隷属をもって、一人前、としているのかもしれません。
子供のために自分の人生の時間を10年20年程度を費やさざるを得ない、それがしかも当たり前であるかのように社会全体が思っている。
そのような状況下で、果たして本当に子供が必要なのか、と言う疑問も浮かんでしまいます。
さらに言えば、衰退する日本と言うこの国において、子供を産むことが子供の未来にとって果たして幸せなのか、という根本的な疑問すら感じているのです。
とは言え本来子供を残す事は生命の存続の根幹的な部分であり、それを躊躇させるような社会の方がよほど大問題ではあると思うのですが。
死について
理想の生活を考えた場合、自分の最後を考える事は当然です。
なぜならば最後について思いが巡らされているからこそ、そこに向かう過程としての大生きると言う行為が意味を持つのですから
よく自分の最後には家族に看取られながら死にたい、などと言いますが、これは迷惑千万な考え方もしくはファンタジックな考え方と言わざるをえません。
そのような状態になるには、おそらくガンや何らかの生命に関わるような病気にかかり、おそらくは無駄な延命治療をされた後に、そのような状態が許されるのでしょう。
私は死から何日か後に発見される、いわゆる事故物件を構成する孤独死と言われるものですが、そのほうが気楽ではないでしょうか
今、事故物件と世の中言われますが、それを言われると困るのは不動産屋と不動産所持をしている大家だけであって、いわゆるところの霊感やそれらの方針で意見書を信じていなければ、あまり問題にならないと思うのですが。
人生の意味
結局、人生などは暇つぶしに過ぎません。
その暇つぶしに社会や企業や経済的問題、そして社会的問題それらが否応なしに考えることを強制してくる気の長い暇つぶしです。
両親との関係について、私は兄と弟がいるため、必ずしも当事者となるわけでありませんが2人とも全く経済的社会的に非常に脆弱な存在であるため、結局のところ私が何らかの対処をせねばならないのかなと思います。
非常に酷な言い方ですが、ある日突然倒れて、数日後に発見されて病院で死亡が確認されたという最期が1番本人にとっても家族にとっても幸せだと思うのですけれどね…。
人は悲しいかな、老いるものです。
医療利権によって命は大切など、と言うまやかしの言葉によって、必要以上の延命治療をさせられている、そんな社会状況と私は考えてしまいます。
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