
人間は誰しも孤独だ
人間の最小単位とは、一人です。
一人であること、孤独であること。
それらは、この日本社会ではさも悪い事であるかのように喧伝されます。
なぜならば、日本が製造業として花開いた昭和の一時期、その根底にある集団主義的な思想、すなわち、軍隊であるかのような規律を持った行動を集団に強制させ、上の者に対し一切の意見を言わせない、そんな風潮がつい最近まで残っていた事が、孤独を悪とする考え方の根底には存在するのではないでしょうか。
集団主義は誰にとって得なのか
私は集団主義を植え付けているのは、日本の義務教育、小中学校、そして高校であると考えます。
もちろん、それは必ずしも、すべての学校に当てはまることではありません。
特に、いわゆる進学校などと言われている学校と、一般の学校、また、底辺校などと言われている学校では、全く異なる部分があります。
ちなみに、私の通った高校はあまり「褒められた高校」ではなかったのですが、実は比較的、自由であった記憶があります。
いわゆる「普通の偏差値の高校」に入ってどんぐりの背比べでガチガチの管理教育のもとで勉強するよりも、「偏差値が高くない学校」で、最初から大学は推薦狙いをして一定の成績を納めていれば、教員たちは一定程度の部分は放置しておいてくれる可能性が高いです。
しかし、その話題は、この記事とは別の話題であるため話を控えます。
未だに多くの学校では、運動会などの強制的に集団主義を強いられる行事が嬉々として行われています。
それらの行事とは、教員達が定められたカリキュラムを彼らの意識規範、すなわち減点法による、自らの減点を恐れるが故に行っていると考える事ができます。
しかし、その根底にあるものは、いまだ改善される事のない集団主義、それは現在で言うならばブラック企業に適した人材を作る、つまり、ブラック企業での法的な問題のある労働に対し、文句を言わない、上の者の言う事をハイハイと聞く、そんな人員を作っている事に他なりません。
それらの「都合の良い人材」を作るためのカリキュラムを為政者が作り、減点を恐れる教員たちが必要以上の管理教育を行っていると考えるべきでしょう。
集団主義なれ果てとしての戦争、震災
また、その一方では3.11に見るような日本における災害などにおいて、未だにこの国は集団主義者を美徳とする傾向があります。
それはこの国の人々が集団主義をDNAレベルで振り込まれている事の証左かも知れません。
また、現実的に日本は農耕国であり、農耕とは季節に従い、集団行動で畑や他を作っていた事も歴史的な事実として見るべきでしょう。
今回の2020年オリンピックを見るまでもなく、日本人は何かのイベントで個人の権利を抑圧しようとする傾向が見られます。
一人を肯定し、自分のために生きる
集団主義は必ずしも学校や企業に限るものではありません。それは家庭にもその概念が入り込んできています。
個人が個人とのユニットを組む、すなわち恋愛とは、お互いが別の人間であるから、こそ、お互いを尊重し、その結果として良い関係を作れるのです。
恋愛の崩壊の最悪な事例として以下のような状況があります。
夫が定年退職したにもかかわらず、お互いに顔も見たくないような状況で、年金を分割する事ができないが故に、いやいや共に暮らさざるを得ない状況があります。
それは社会の押し付けた家庭、という最小の集団主義による被害者と言えるかも知れません。
孤独は楽しい
私は孤独が決して悪いとは全く考えていません。
それどころか、孤独とは、それは楽しい事である、とすら考えています。
自分で自分の人生の決定権を持つ、そして自分が楽しいと思う行動をする。これは、個人の自由の究極的な尊重としての行動ではないでしょうか。
今の社会は集団主義の亡霊を引きずり、その集団主義の最小単位である家庭を、それを維持する事が個人の責任であるかのような価値観を押し付けようとしています。
本来、家庭、すなわち個人のユニットが、子供を作り、その子供を育ているのは社会の責任です。
何のために我々は先進国最悪とさえ言われる高い税金を払わされ、年金を払わされているのでしょうか。
それらの高額の税金を払っているのですから、当然、その社会で生まれた子供について社会が全ての責任を持つべきです。
もしくは、その子育てについて、社会として責任を負わないがために、「家族が最小の集団」であるかのような言動を為政者たちは流布させようとしているのかも知れません。
結局のところ、現在の集団主義は、少子高齢化、それにともなう社会の劣化、もしくは社会の維持の限界によって、集団主義の弊害を明らかにしつつあります。
無論、だからといって、私は多くのブロガーのように会社組織を否定する考え方はありません。別に会社でもいいと思います。無論、それとブラック企業やワンマン経営者の肯定とは全く別問題ですが。
総論として
孤独は決して否定されるものではありません。
自分の人生を、自分が主体として楽しむ事ができる、それを当然と思うようになれば、つまり、社会の「常識」に少しだけ背を向ければ、この社会は随分と楽しいものとして認識ができるかも知れません。
社会は集団主義的な同調圧力を利用し、様々な不利益を個人に対して押し付けようとしているのですから。
少なくとも、この社会で蔓延している、「空気を読む」などの同調圧力とは、一体それが誰にとって有利になるのか、を考えてもらえれば、問題の根幹が見えやすいのではないでしょうか。
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