苦痛としての日本語のyoutube
正直、日本語のYouTubeを見るのは最近は苦痛となりつつあります。
まるでバラエティー番組の劣化版のような安っぽい効果音、大げさなリアクション、そして、安っぽいデザイン、大げさなサムネイル、それらは「見るに耐えない」という表現がぴったりです。
かつてある作家はテレビを1億総白痴化と罵りましたが、今では日本語のYouTubeは1億総白痴化のためのコンテンツと言えるのかも知れません。
私は少なくとも日本語のYouTubeは、ほぼ見ません。それらは多くの場合99%以上は時間の無駄以外に何物でもないとさえ思えてしまいます。
あまりにもYouTubeが劣化版テレビのような、いわゆる「モノ考えぬ者」を生産するためのメディアに近づいている、または、テレビ化が進行している、とでも言うべきでしょうか。
それは島国の消費者の少なさゆえ、または、文化の低レベルさゆえの惨状かも知れません。
youtubeは英語に限る
検索をするとき日本語のYouTubeの場合、英語で検索しても、でかでかと、まるでバラエティー番組の劣化コピーのようなサムネイルが並ぶので、それらを意図的に除外してクリックしていけば日本語ではないYouTubeを表示してくれます。
もちろん、言うまでもなく自動翻訳ではなく、原文で動画を見ています。少なくとも英語での概ねの内容を理解し得るだけの英語能力は持ちたいものです。
とはいえ、まさか日本語が「くだらない動画の確実な指標」として機能する日が来ようとは。まさに衰退する日本、と言わざるを得ません。
結局、なぜ、日本のYouTubeがあまりにもくだらない、そして、まるでバラエティー番組の劣化版のような子供じみた演出、お笑い番組の芸人気取りのような言動をしなければならないのか? と考えた場合、日本の絶対的な人口が少ないという事が挙げられるでしょう。
それを本人達が気づいていても主張する事ができない、たとえそれを行えたとしても当の本人達は、英語などまともに読み書きも出来ないそんな状況ではないでしょうか?
別に趣味の範囲でやるのなら、だいたいの発音やブロークンな文法、少ない語彙でも動画づくりは、どうとでもなると思うのですけれどね。
youtubeでの日本語の限界の時期を考える
とは言え日本語のYouTubeというものが成り立つのは、せいぜいあと10年程度ではないでしょうか。
もちろん、その10年間の間に自動翻訳の技術は進むでしょう。ただ、進んだところで、そのバラエティー番組の劣化版のような、日本国内でしか通用しないような、お茶を濁すような、時間を浪費するだけの、モノ考えぬ民を作る、そんなコンテンツ自体が成り立たなくなるでしょう。
また、彼らがYouTubeの番組を作るための動機としての根底にある、広告費用という面においても、購買力の弱い日本の消費者に向けた広告の報酬は極めて低いものとなり、その結果として日本語youtuberの収入も著しく減少してゆくであろうことは火を見るより明らかです。
youtubeは暗澹たる日本社会を表す
ここまで日本語で作られるYouTubeの暗たんたる状況を書いたのですが、結局、それらの日本国内の限定の問題とは、教育制度の問題であったり少子化の問題であったり今の日本の社会構造、そのものであるのではないかと思います。
もちろん、日本国内において英語を公用語化するという事について、私は必ずしも賛成では無いのですが、英語を公教育で教える際に、実用的に使わせようとしない、すなわち、国内島国根性を推進させようとする意図がどこかに透けて見えるような気がしてなりません。
toがどこにつくかとか、そんなモノ入試で取り上げるようなことでしょうかね?
事実、海外のリベラルな政治的な運動などを見ていると、それらを日本の国民がそれらを原語で見聞きできるようになれば、日本の現在の為政者にとっては脅威に他ならないでしょうから。
少子化について今さら言うべき事ではありませんが。それは、職氷河期を放置し、そして、問題の先送りを繰り返してきた事の全てのツケです。今更ここで論ずる必要などありません。
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