クリスマスは宗教的冒涜である 日本の奇形商業主義のなれ果てとして

By | 2016年12月20日

すみません。パートナーがいますが…。

この時期になるとクリスマスだ、セールだ、ホテルだ、と、それらの行事に乗せられる人々の頭の中はバブル期で止まっているのではないか、とすら本気で思ってしまうわけです。

クリスマスという宗教的冒涜

今年もクリスマスが近づいてまいりました。クリスマスは精神的にうんざりです。コンビニに入ればクリスマスソングを流し、スーパーに入っても、地下街に入っても同じ。

何か悲しくてクリスマスセールだとか、クリスマス商戦だとかやっているのでしょうか。

そもそも日本にキリスト教徒が国民の人口の内、いったい何割存在しているのか、そのようなことを考えると、宗教的な感情を商売に利用しているのはもう明らかに見え見えです。

実際、クリスマスの6日後には仏教の寺で除夜の鐘を突いて、そしてその数時間後には神道である神社に初詣に行く、それはあらゆる宗教を「イベントとして利用する」訳の分からない宗教観を日本人は持っていると言えるでしょう。

また、他方では日本でのクリスマスとは、アメリカナイズ「されたい」日本人の精神的な象徴とも言える行為ではないでしょうか。

商用利用される日本での宗教と文化的貧しさ

無論、私は神道も仏教もキリスト教も「教義の考え方そのもの」を否定するわけではありません。

日本には八百万の神々という考え方があり、その一つの神としてキリスト教をとらえることは全然ありだと思います。しかし、それが宗教的行事であるはずのキリスト教のクリスマスが、なぜか商業主義に利用されているという現実に対して辟易とするのです。

これはバレンタインも全く同じ事なのですが、それらの行事の時に、彼女や彼氏がいないと恥ずかしい、などという、卑劣極まりない考えをマスコミが垂れ流す行為は、日本人の精神構造の貧困さそのものとも言えるのではないでしょうか。

ちなみに私はパートナーはいますが、クリスマスとかバレンタインとかは正直なるべく極力、可能な限り避けて通りたいと考えます。

別にパートナーとそれらの行事を共に過ごすことについての楽しさは否定しませんが、結局、そこにある商業主義に、ホイホイと乗ってしまうことについて、私は非常に苛立ちを感じざるを得ません。

それらの宗教的行為を利用するのは、それは日本人が商業主義の上に、キリスト教を冒涜している、とさえ考えることができるのではないでしょうか。

むしろ、アメリカや西洋の人々は日本の宗教的堕落について、もっと指摘するべきではないのでしょうか。

アジアの極東の島国ではキリストの誕生日が「明らかに違う目的のイベント」と化していますよ?キリスト者の皆様?

ちなみに私はクリスマスのことを言うつもりは全くないのですが、クリスマスを意識するのは、だいたい女性の方だったりするのですよね。

それはつまりファッション誌であるとか、テレビであるとか、それらの媒体に触れる機会が多いからそうなるのであろう、と私は考えます。

とはいえ、私はクリスマスの行事も、除夜の鐘も、初詣にも一切、行きませんが。

そのような「誰かが作った大きな物語」に参加するつもりはありませんので。そんなことをするくらいなら自分で鍋料理を作ってパートナーとのんびり食べている方がよほど幸せですから。

お祭り騒ぎとしてのクリスマスイベント

そもそも私は「現行の宗教系の行事」そのものについて、極めて否定的な見方をしています。

なぜ否定的な見方をするのか、それは結局クリスマスに象徴されるように、日本においては土着的な神道をも含めて、それらは結局のところ「お祭り騒ぎ」に象徴されるような、単なるイベント、もしくは新興宗教の金儲けの土台的思想としてしか使われていない、のが今の社会の現状ではないでしょうか。

無論、宗教による歴史の構築への影響は認めますが、もうそろそろ日本は「成熟した国家」としての振る舞いをすべきでしょう。

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