
地方で完結したシステム
つまり、その行政区域内で、助成金があれば、それを配分し権力者に取と都合の良いシステムを持続可能な状態が延々と続いている事になります。
地方議会や地方役場の存在がありますが、それらはミニ国家として、保守系議員の保身ツールとして利用されている状態と言えるでしょう。
地方に行けば行くほど日本の民主主義と称する、その実態は江戸時代などの封建制とあまり変わらないお粗末な政治状況を強く実感する事ができます。
実際、日本の国会において田舎に行けば行くほど与党の支持基盤である事は現実として存在しますし、また、それは見方を変えるならば、地方におけるボスザル主義の政治者は国によるお墨付きの行動事になります。
地方のボス猿は、その多くが与党勢力の末端基盤であり、そして、地方政治に政治有形無形の圧力をかける事によって、国会の与党勢力の延命を行う構造があります。
また、それを与党勢力は、そこで起こといる様々な問題を意図的に見て見ぬふりをしている実態があります。
立法と行政の一体化
本来、司法と行政は三権分立と言いますが、地方議会では地方の役所上がりの議員が多数存在しますし、また、それらの議員が提出する条例の多くは、地方の役所の担当者が作成し、議員に渡している事が多いです。つまり、三権分立のうち、立法と行政の一体化、という事になります。
そうする事によって、彼らは無駄な箱モノを合法的に作りそして、自分の子飼いの業者を儲けさせ、「政治献金」を受け取る事により、自分の懐を潤わしているのです。
地方においてモラルを求める事自体が間違といると言えるでしょう。地方とは、正直な話、江戸時代とあまり変わっていない、と考えていたほうが良いかも知れません
そのような状態になるのは、保守系の議員が多数存在する地域で正義感を求める事自体が間違といえる考え方です。
司法も黙認状態
それらの違法状態に対して、司法は「法的に適切に作られた」として、黙認を行なっています。
私も以前、ある案件で行政と関連した事がありますが、役所者は書類さえ揃っていれば、それをもって合法です、といいます。
その書類がいかにして作られ、そして、その書類の事実の裏付け、もしくはその書類が現実と離れていたとしても、その書類が一旦通った以上、それは「事実」として独り歩きし、「書類が揃っているから」それが適正である、という本末転倒な議論が地方の役所ではまかり通ります。
地方は切り捨てられてもやむを得ない
地方はそれらの「法的な手順を踏んだ」彼らにとって都合の良いシステムとして、存在しています。
私はそれらの地方は切り捨てられてもやむを得ないと考えています。
地方の役所と議員のため、そして、彼らの取り巻きの業者のために存在する市役所や町役場。それらは時代の変化について行けず、そして、利権やコネを使った、補助金だよりの存在なのですから。
とはいえ、もう現実的にはこの国が少子高齢化でジリ貧の状態になり、国も地方に対する補助金を減らさざるを得ないでしょう。
その場合、国会における為政者は自分達のイエスマンとして優れた地域を残すでしょうし、そうではない地域は切り捨てをするでしょう。
コンパクトシティ、などと現在言われていますが、それはもはや現在進行形の地域切り捨て政策に他なりません。それが次は市町村単位で行われる事となります。
無論、国内のインフラの維持のために一定程度は過疎地における人口の持続なども考えねばなりませんが、その場合、あくまでもインフラの継続のため、これまでの地方文化の延命考え方とは全く異なる考え方が必要なのではないでしょうか。
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