自分探しなどしても無駄無駄無駄 生き方は社会で抗い、失敗しつつ学ぶもの

By | 2017年4月6日
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自分は自分の意志と外側の世界と

「自分探し」とは、自分の内面にある適正を自分で見つけようとしている事と私は捉えていますが、それは本来は、外部の世界によって引き出されるべきも、、ではないでしょうか。

ちなみに、どこかに旅行をする事や、意識高い系の行動をすること、それらのすべては自分の願望としての行動、もしくはナルシスティックな行動をしている事であり、それは決して自分の内面を探している行動ではないような気がします。

とはいえ、若かりし頃に自分にとって何の得もない、もしくは、それを行った事自体を後悔するような、そんな無駄な経験をする、それは、すなわち人生にとっての浪費を「あえて」行う、という意味では意味があるのかもしれません。

また、言うまでもないのですが、資格を取れば何か人生が変わるということは今の日本においては通用しないことでしょう。

人口減少の真正中の日本において、資格を取ったからといって、それで食えるような資格とはもう一ケタ種類もないのではないでしょうから。

取れるか取れないかわからないような資格を取ろうとして、人生を棒に振る、とは、よくありがちなパターンかもしれません。

その一例として弁護士は法科大学院の三振制による人生の方向性の大幅な変換の必要性を迫られた人々、また大学の医学部に入ったとしても、私立大学の場合は、成績の悪いものは強制留年により、医師免許の「受験さえ」受けさせてくれないなどという悲惨な実態も伝えられます。

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「とりあえず楽しい」でも良いのでは

自分探しをする時間とお金があるのであれば、とりあえず自分が楽しい、もしくは面白いと思える事に没頭する、それで良いのではないでしょか。

それらに没頭してれば、また次に何かをしたい事が出てくる。人生とは短いようでいて長いですし、長いようでいて短いのです。特に若い20代などにおいては遠回りをする経験は否定されるものではないのかも知れません。

いわゆるエリートコースを歩んできた人が離婚、もしくは子息の不良化などによって、その人生を大きく狂わせる、またそのような場合に人生経験が乏しいため、それらのアクシデントに対し、「常識的、法的には真っ当な選択」を行えたとしても、自分にとってそれが全く好ましくない選択肢しか取ることができない、などのケースもあるようです。

そのような意味において、必ずしも人生の遠回りが悪いというものではありません。

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不可逆な行動をしない

ただ、これらの行動において気をつけるべきことは、元に戻せなくなるような判断、行動をしない事でしょう。

それは具体的には結婚をするであるなど、誰かの子供を作る事、また犯罪などをしてしまう事。

それらは、その地点から元の地点に自分を戻すために極めて大きな労力を必要としてしまいます。

人生とは、何かに失敗し、裸一貫になってしまったとしても、そこから自分が希望を持って、また新しく自分の人生を再構築すること、その展望と、その手段が頭に思い描くことができれば、それは絶望ではありません。 それは、また再スタートということにすぎません。

たとえ、遠回りに見えたとしても、その遠回りから元の状況に自分を戻せる、もしくは、それが社会的に見て逸脱ではない行動、そんな範疇の行動に留めておく事が大前提といえるでしょう。

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いつでも人生は楽しすぎる状態にできる

人生とは何が楽しいか、楽しくないかを決めるのは自分です。

楽しみを現時点で得て、そこで満足できているのであれば、それはそれで幸せなことでしょうし、自分で高みを目指す意思を貫く、これも素晴らしい事だと思います。

つまり、自分が楽しいと思える事、そして、それが生産的な行動をしていれば、それなりの楽しい状態になるのではないではないかと思うのです。

どちらにせよ、自分の人生は自分が決めるものですから、それは自分がジタバタして決めれば良い事だと思います。ただ、それでもなお、自分探しという言葉に美化するのではなく、あえてわざと無駄なことをする、という人生の長期的な考え方でも良いのではないでしょうか。

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