共産主義は宗教の一種である「神のいない宗教」の共産主義の決定的な誤り

By | 2019年7月7日

「神を否定する宗教」としての共産主義

言うまでもなく共産主義とは唯物論に基づく、人間社会をシステムとして考えた経済的思想と言えます。

しかし、共産主義の根底にある唯物論とは、「神を否定する宗教」、つまり、宗教の奇形的な一種ではないか、と私は考えています。

特に日本のような八百万の神の考え方のもとにおいては、至る所に神は偏在する、との考え方があります。

とはいえ、無限の存在とゼロの存在の考え方は、一見矛盾しているように見えて、極めて近似がある考え方と思ってしまいます。それはいわゆる近代数学における哲学のような問題になってしまうので、ここでは論じませんが。

ただ、その八百万の神を信奉する日本において経済的衰退は明らかですし、言うまでもなく共産主義の衰退も誰の目にも明らかです。

それは皮肉な近似性と言えるかも知れません。無論、だからといって、私は一神教の宗教を信仰する事は絶対にありませんが。

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左翼はあさま山荘に、宗教は人民寺院となる

神ない宗教としての共産主義の到達点は悲惨な内ゲバ事件を伴う「あさま山荘事件」であると思いますし、そして一神教を崇拝する宗教の最終的な到達点は信者を巻き添えにし大量自殺を実行した「人民寺院」であると考えます。

そのどちらともにセンセーショナルな事件ですが、社会に対して何ら寄与した事件ではありません。

双方の事件ともに、ある思想の枠内に凝り固まった末の凶行と言えるでしょう。

つまり、ある一つの物事の考え方に自分の人生が乗っ取られてしまうと、非常に好ましくない状態に自分が陥ってしまう、それは宗教や政治思想どちらの考え方においても共通している事ではないでしょうか。

キリスト教とは原始キリスト教からカトリックとプロテスタントが生まれ、そして、そのプロテスタントをもさらに細分化し様々な流派が存在しています。

また、同様に共産主義もマルクス、エンゲルスによって生み出され、それが様々な亜流を生んでいることも同様です。

それは、これまで信じていた宗教者に対するアンチテーゼとしての「神ない宗教」としての共産主義が生まれ、まるで経済システムを合理的に説明できるかのような幻想、を世界にばら撒いた、とさえ言えるかもしれません。

しかも、その始祖はソ連という巨大な存在として、です。それはある意味では悲劇とさえ言えるかもしれません。

もし共産主義ソ連のような大国ではなく、どこかの小さな島国だけで共産主義の実践が行われていたのであれば、そこで共産主義の問題があぶり出され、リベラルな思想としての穏健に生き残った可能性はあるかもしれません。

欲望こそが世界を回す

共産主義の絶対的な誤りの一つとして、人々が欲望を抱かない、もしくはコントロールが可能である、との前提に立っている事が最大の誤りです。

平等の考え方は、これは一見、美しいように思わせ、実は非常に醜悪な考え方です。

人間は欲望があるがゆえに自分の生命を維持し、そして科学技術を発展させ、今の社会が作られてきました。

旧ソ連を見るまでもなく、共産主義の社会において、人々が利用する自動車や電機製品は停滞し、そこに科学技術の進歩はありません。つまり、通常の生活一つを見ても共産主義の限界は明らかである事が導き出されます。

ただ、それらを共産主義を「神の無い宗教」として捉えている人からすれば、「すべての人々が平等であれば科学技術の進歩など不要」かも知れませんが。

もしくは、強烈な皮肉として、生まれてきた人間全てにロボトミー手術を施せば人間の欲望者をコントロールできるでしょうし、それが可能であるならば共産主義の理想的国家を作る事ができるのかも知れません。

しかし、ロボトミー手術とは、かつてソ連で行われていた恐怖支配による専制的政治、スターリンによる政治と一体何がどう違うのか私には理解する事ができません。

または別の視点で見るならば、キリスト教におけるキリストという絶対的唯一の神と、共産党におけるソ連ではスターリンまたは中国での毛沢東などのような絶対的指導者、それらは「神に近い存在」として崇められることによる、類似性を見出すことも可能です。

人生を楽しむための思想はホドホドに

別に宗教や思想などは、「余暇」として愉しめばいいのではないでしょうか。

誰かの考え出した思想に無批判に頼りきると人生がロクな事になりません。カルト宗教や左翼活動家の人々は幸福感に溢れているのかも知れませんが、それは特定のイデオロギーに依拠した生活を行う、すなわち自分の思想と人生を誰かに売り渡したに生活と日々に他なりません。その代償として、「自分で悩む必要」が無くなった人生なのですから。

確かに自分でモノを考えず、誰かの考えに依拠をする生き方は、楽でしょう。

いわゆるカルト信者は自分の時間もお金も全て所属教団に捧げる生活を送っている人が多くいます。しかし彼ら彼女らは今日その教えに従って生きていれば、たとえ周りから見れば不幸であったとしても、当の本人たちは幸せになのでしょう。

それと同じように共産主義もしくは、その類似的な考え方は同じようにカルトになり得る考え方と言えるでしょう。

もちろん、行き過ぎた資本主義、特に新自由主義などと呼ばれる昨今、それは豊かな者はさらに豊かに、貧しき者果てしなきドン底に叩き落される、そのような問題に対して、対極にある思想としての共産主義的な考え方は、「考え方」として知っておくのは良いでしょう。

しかし、共産主義は現在において適用されうる考え方ではなく、それらの失敗を元にしたより新しい考え方が適用されるべきではないでしょうか。

しかし、ウェブがこれだけ発達し、通信環境は100年前とは比べ物にならないほど進化し、そして、今AIが出現しようとしている、そんな世の中においてさえ、「平等」や「神」という存在は、まともに扱えきれていません。

その究極的な問題の原因は、人間存在の矛盾自体に起因する問題なのかも知れませんが。

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