高レベル放射性廃棄物の最終処分場は人間の「愚かさ」の象徴とすべきだ

By | 2018年3月2日
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人間の扱いを超えたエネルギーとしての原子力

高レベル放射性廃棄物の最終処分を保管するのに10万年もしくは1万年の保管、とあります。

これは一万年としたところで、有史以前、つまり人間が猿の様な生活をしていた時代から現在までの長さになります。そのような、ごく単純な事実を考えただけでも放射性廃棄物の管理、保管をするとすることなど到底、無理な事に思えてなりません。

ましてや、その10倍の10万年の保管など「人間の自然に対する重大な挑戦」としか言いようがありません。

そもそも人間が10万年管理しようとすること自体が自然を愚弄しきった行為でしょう。結局、原子力の領域とは人間が神の領域に踏み込んでしまった行為として、未来の人々は認識する、もしくは「せざるを得なくなる」のかもしれません。

また、放射性廃棄物の管理とは、延々と未来の人間に過去の負の遺産を押し付ける、そんな人間の究極の「業(ごう)」と、将来の人間は思うのでしょう。

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一万年先の不確定さ

1万年間、人々に高レベル放射性廃棄物の最終処分場の危険性を伝える方法について、その方法はいまだに全く定まっていません。

例え今日、我々が危険だと訴えるために、処分地にドクロマークなどを書いた、彫りつけた、としても、1万年間その印刷や、その構造物が残っているという可能性は極めて低いでしょうし、もちろん言うまでもなく紙媒体や電子データなどは絶対に残っていないでしょう。

また、文化は歴史とともに変化するものです。たとえ今現在で「ドクロマーク」が忌諱されるべき象徴であったとしても、数千年後には「幸せの象徴」となっている可能性すら否定はできません。

それどころか、人間がそもそも数千年後に存在するのか、それ自体に疑問があります。

ある日突然、ウイルスの蔓延などにより、一気に人類が滅びるという可能性もあるでしょう。また、別の惑星から侵略者が入ってくる可能性もゼロではありません。

また、それ以前に人間が人間同士で終末戦争を行い、文明の完全なる破壊という最悪のパターンもあるかもしれません。

そのような、何が起こりうるかわからない1万年後の未来に対し、我々はメッセージを届けることなどできません。

科学者たちは「未来永劫、高レベル放射性廃棄物の廃棄場所が存在するとのメッセージを届ける」、と称しますが、それはただ単に、現時点でのアリバイの言論に見えてなりません。

一つ確実に将来的に残りうる事実としては、一万年後、もしくはそのさらに先の未来に、とてつもなく面倒な負の遺産を押し付ける、それだけです。

原子力について、そのエネルギーが平和的に利用されたのは、わずか5、60年と考えることができます。そのわずかな期間の繁栄のためだけ、に一万年以上もの管理が必要な高レベル放射性廃棄物を出してしまう。

それは、常識的に考えて、原子力とは、もはや人間の扱うことのできないエネルギーを考えるのが自然なのではないでしょうか。

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最終処分地の幸せな建設方法

最終処分地について、国内のどの地域に作るべきかの選定が始まっていますが、私は別に過疎地であればどこでも良い、とさえと思うのです。

むしろ放射性廃棄物の最終処分場は、人間の愚かさの象徴として、全ての人間が知るべき存在とし、観光地化される方が良い、とすら思ってしまいます。

つまり、それは人間の愚かなる振る舞いの最後の結末を知らしめるための施設、という意味あいです。

当然、高レベル放射性廃棄物の最終処分場を国内に作る際には、超巨大な国家的プロジェクトとならざるをえないでしょう。それは、現在有る原発のレベルの事業ではなく、その何倍もの、物理的、政治的なエネルギーと資産を使うことになるでしょう。

それだけの巨大な国家的プロジェクトの施設を作るのですから、もし高レベル放射性廃棄物の最終処分場の選定がされた場合に、その地域に住んでいる者たちが嫌がるのであれば、

「お金は払いますので、どこでも好きな場所に移住してください」

とした方が、誰にとっても、幸せな解決になるのではないでしょうか。もはやそれは故人の思惑など全く通用しない、「人間と自然」との究極的な関係性となるのですから。

そもそもが「人間の愚かさの象徴」たる高レベル放射性廃棄物の最終処理施設に、住民に理解を求めること自体が不可能でしょうし、そうであるならば、「愚かさ」の最終的な発露として強制的に作ったほうが、よほど、誰もが納得できるでしょう。

現在の日本では消滅しそうな市町村が各地に偏在しているのですから、それらの首長に形式的な「ご意見」を聞くのではなく、「国家の決定」として強制的に作ってしまう方が、誰にとっても幸せな結末になるはずです。

また、それに対する住民への保証の費用など、今後、人間が自然と歴史と「超長期間にわたって対峙せざるを得ない」コストから考えれば、微々たるものでしょう。

とはいえ、「負の遺産」として観光地化し、それらの町村が繁栄する可能性もゼロではないでしょうけれど。ただ、「負の遺産」となったところで、たとえ原発反対の意見が出たとしても、時すでに遅しなのですが。

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