左派からの賛成としての核武装論 もしくは、平和的解決の最終兵器

By | 2017年11月16日
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核武装の議論を全否定はしません

このような話題を、どこかの政治政党に属していて主張すると、左派やリベラル系の場合は徹底的に糾弾を受けるのでしょうけれど、私は勝手にこのブログで言いたい事を言っているだけなので、堂々と書きます。

私は核武装の議論ついては否定はしません。議論そのものを否定してしまう事は、その時点で思考を全て止めてしまう事に他ならない事です。

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国家間の話し合いには然るべき背景が必要だ

現実社会において、物事は話し合いで解決されるべきです。しかし、その解決をする時に背景にしかるべき存在があるからこそ、話し合いは成り立つのです。

つまり、犯罪であれば警察が存在しますし、企業と企業の話し合いであれば、その企業の財力が存在するからこそ、お互いに真剣に話し合いを行うためのテーブルにつく事ができるのです。

どちらかだけが一方的に強い力を持っている場合、それは話し合い自体が成り立ちません。そのような意味で、話し合いのための平和的解決の手段を相手に強いるために、核武装をする、という詭弁は成り立つのかも知れません。

保有する事と使用する事は全く異なる

とはいえ、現在の為政者たちが、核武装の議論を行いだすと、それは明らかに社会がまずい方向に行っていると考えざるを得ませんが。

そもそも、なぜ3.11において原発を爆発させたにもかかわらず、原子炉を未だに推進するのか? その根底には原発によって作られるプルトニウムを用いた核武装の思惑が存在するのでしょう。

原子力発電所は核武装のための一手段として見る事も可能でしょう。とはいえ、私は原発そのものには反対しています。

国家の防衛のための手段として原発を廃止するが、「『先端技術』を研究するための実験用原子炉は残し、増やす」と言うアピールをすると身に覚えのある国は非常に嫌な気分になるかも知れません。

知性のための兵器としての核兵器

実際の所、核兵器を数発持っていたところで、それは実践ではなんら「神風」とはならないでしょうし、また、それを実際に保有する事は国際社会からの大反発を受ける事が確実です。

しかし、意図的に「持っているのではないか?」との疑念を抱かせる事はまた別の思惑を生むのではないでしょうか。

「核開発の疑念」について、それを、ノラリクラリと否定も肯定もせず、必要であれば国際視察団を受け入れ、「疑念を晴ら」せばよいのです。

しかし、それでもなお、くすぶる「核開発の疑念」として漂わせ続ければ、その「疑念」自体が、国際的な紛争の際の「話し合い」の兵器として使えるのではないでしょうか?

「相手はもしかすると、核兵器を持っているかもしれない」

そんな疑念だけでも十二分に「抑止力」と成りうるものです。ただ、そんな高度な戦術は今の為政者に求めるだけ無駄でしょうけれど。

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