2020年東京オリンピックは失敗する 日本へのトドメとしての国際恥さらし

By | 2018年7月17日
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絶対に東京オリンピックでボランティを行うべきではない

心ある人々がオリンピックに対し、ボランティアをすべきではない、と主張していますが、私もそれに強く賛同します。

オリンピックとは、ハコモノの大量建設を見るまでもなく、何千億円も血税を投入し、広告代理店の電通などにも多額の資金が投入されているにも関わらず、何が悲しくてボランティアと言う名の無償労働をしなければならないのでしょうか。

しかも、真夏の炎天下において、宿泊場所や、まともな交通費さえも出る事のない、劣悪な環境下での無償労働と言えるでしょう。

また、そのような無償労働を行政が嬉しそうに募集する時点で、この国の底の知れた文化が見え隠れします。

そもそもボランティアという言葉は、決して「無料」、「無料奉仕」を意味する言葉ではありません。ボランティアの意味は「自発的」という言葉です。「タダ」ではありません。

今この社会において、ボランティアに参加する事は、善意に期待する社会を、今以上につけ上がらせる事であり、この社会の悪化の促進である事に他なりません。

心ある人達は、絶対に東京オリンピックへのボランティアをされないよう、このブログでは強く呼びかけをします。

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オリンピックをする前に行うべき事は山のようにある

私はこのブログで散々出張していますが、もしオリンピックと称する国際運動会を開くのであれば、それ以前に、まず現在、無為無策によって「なかったこと」にされようとしている就職氷河期世代の救済を、最優先課題として行うべきではないでしょうか。

彼らに投資する事によって、彼らが結婚し、子供を産めば、その子供が成長する事によって、この国の経済の回復に必ず貢献してくれます。

また、20数年後には彼ら、彼女らの子供は、必ず納税者になってくれるのですから。これほどリターンが確実で、かつ、誰もが幸せになりうる確実な社会的投資はありません。

しかし、現実問題として一部の就職氷河期世代は、もはや女性の場合、子供を産む事が厳しい年代に差し掛かりつつあります。

すなわち、一部の就職氷河期の人々が子供を産む方ラストチャンスとも言えるような現在の状況において、彼らに対する救済を行わず、一体、何をもって、オリンピックとウツツを抜かしているのでしょうか?

それは、この国の為政者たちが問題の解決順序を全く理解していない事の証左ではないのでしょうか。

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猛暑オリンピックへようこそ

オリンピック8月に開かれるそうですが、今年の夏の猛暑を例に上げるまでもなく、夏季の都市部は人間の住むような温度ではなくなりつつある、のではないかと思ってしまいます。

現在の日本で亜熱帯の部分は一部の地域であると定義されていますが、これが温暖化が進行することによって、東京も確実に亜熱帯となるのでしょう。

ましてや数年後の東京オリンピックは、より暑さは猛烈なものとなっているのでしょう。

また、あまりの異常な猛暑のために、選手達も出場を棄権する選択肢があっても良いのかも知れません。

異常な環境下で行われるオリンピックに出場する事は、選手生命を縮める事になりかねません。

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倒れる選手 倒れる観客

観客が倒れる事はほぼ確実でしょうけれど、場合によっては、選手さえも倒れるのかも知れません。

それはすなわち、近代オリンピックおける最も恥ずべきオリンピック大会として東京大会は記憶される可能性すらあります。

無論、国内向けの報道では「報道しない自由」を行使し、「オリンピックは成功した!」とプロパガンダ報道を垂れ流すのでしょう。

言うまでもなく、選手や観客が倒れた場合、まずは選手を優先するのでしょう。そして、その結果として観客の救助は後回しにされ、観客は何人かは危機的な健康状況に陥る者が出るかも知れません。

さらに、その被害者の観客が外国人観光客であった場合、お粗末な大会運営の責任などにより、深刻な国際問題になりうる可能性すらあるでしょう。

それはハコモノや役員などに大金を費やしながら、結局、「国際的な恥さらし」しか残さなかった、という最悪の結果を招く可能性すらある、と考えるべきです。

責任の押し付けあいが始まる

失敗としての2020年のオリンピックオリンピックが行われた後には、責任の議論を押し付け合いが始まるのでしょう。

それは、おそらくは最も都合のよい部分として、ボランティアに対する責任転嫁が行われるのかも知れません。

また、運営委員などは、「責任を取る事を織り込み済みで」の、役員報酬の支払いが設計されているのかもしれません。

「責任をとり、辞任した」ところで、人々が忘れた頃に、チャッカリと別の天下り団体役員の席に座っているのでしょう。

葬儀マークの似合うオリンピック

私は現在の東京オリンピックのマークは、まるで葬儀に最も似合うようなマークに見えてなりません。

ただ、実際のところ、日本経済の「最後の一花」とも言えるような東京オリンピックですから、そこに、葬儀マークが用意されているのは、非常に皮肉の効いた記録となるのかも知れません。

すなわち、東京オリンピック終了後、ドン底の景気になった近未来、

「あの東京オリンピックの予算を、まともな成長戦略、すなわち、就職氷河期世代への救済に向けていれば、日本はこんな事にならなかったのに」

と嘆きながら見る東京オリンピックの写真に、いたるところに葬儀マークが嬉しげに掲示されている。なんと皮肉の効いたマークでしょうか!

そもそもオリンピックそのものが必要なのか?

そもそもオリンピックなど必要なのでしょうか。

オリンピックに日本が今回の東京大会に誘致する際に、「3.11の地震における復興」を大義名分としました。

しかし、現在でも東北地方の復興は進んでいませんし、放射能に汚染された汚染土の行き場はありません。

また、福島第一原子力発電所の原子炉の中にある溶けた核燃料は、未だに回収される目処すら立っていません。

それらの問題を放置し、オリンピックという人工的に作られた行事にウツツを抜かす事とは、まさしく「パンとサーカス」を為政者達が必死になって行なっている、すなわち、問題の目隠しをしようとしている、とすら考えてしまいます。

追記

このように大問題を有するオリンピックにおいて、スポンサードする企業は、自社の企業イメージに対する影響を深刻に考えるべきではないでしょうか。

少なくとも私は、このようなボランティアの善意を利用しているかのように捉えられかねないオリンピックを「応援」する企業の製品を買いたいとは思いません。

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