愛国と思考停止 固定概念が染み付いたフレーズから脱却する為の思考

By | 2018年3月8日

問題提起と国を嫌う事は全く違う

「愛国」、「愛国者」という言葉はすごく右翼的で保守的で、そして、硬直化した体制側の者のフレーズ、もしくは、自称「保守」の政治家が紋切りのように言っている言葉、というイメージがあります。

私はこのブログでは現在の社会体制を、かなり厳しい言葉で糾弾しています。しかし、それは「日本という国を嫌い」というわけではありません。

この国の山や川は本当に美しいですし、比較的温暖な気候、また、沖縄から北海道までさまざまな自然環境、それらは本当に美しく、多様性に富み、誇るべきものであると考えています。

私は左翼ではなくリベラル、という立場で主張していますから、自国が国際社会で独立し、保有する権利は当然、保有するべきと考えますし、共産主義者のように世界を単一の思想で染め上げようという考えもありません。

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思想の連帯の左右として

根本思想としては「個人の自由を尊重する」事であり、左翼の主張する無制限な社会連帯については反対します。しかし、同じ問題テーマに対しては一定程度、左右を問わず連帯できる部分については、連帯する行動はアリ、と考えています。

ただ、それは言わゆる大人の連帯として、「良い部分は良い」「悪い部分は悪い」という、部分的な連帯としての考え方です。

別に私はリベラルだからといって、右派の全てが悪いというつもりはありません。右派の中にも原発を否定する心ある勢力もありますし、また、現在の政権を否定する右派が存在する事も確かです。

そのような人々とは個別のテーマに応じては連帯する事については全く問題のない行為であると考えています。それは私が個人で好き勝手な事を書いているブログであるが故に言える事になのかも知れませんが。

日本の近隣国について、私は決してネットウヨクなどのように罵倒はしませんが、しかし、彼らの国内において、さまざまな国内問題、国際問題もしくは人権問題が存在していることも私は認識しているつもりです。

国家間に問題があるのであれば、それに対して感情的な喧嘩腰ではなく、あくまでも対話ベースで問題を解決していくべきです。

決して話し合いとは、相手を罵倒する事や、相手の欠点や揚げ足を取る事ではなく、お互いの主張すべき部分は主張し、そして、お互いに協調できる部分は協調する、その考え方で良いのではないでしょうか。

不幸にも同じアジアの中でいがみ合う国々、そこで、「和」が国のテーマとして存在する日本国が、他国を罵倒するような行動、それが本当に正しい構造と言えるのか、私は甚だ疑問に思います。

結局、愛国、愛国者という言葉は自民党の為政者によって、あまりにも手垢をつけすぎられた言葉です。

ゆえに、それらの言葉に対し一定程度の良識や知識がある人は、それを言葉に対して「胡散臭い」もしくは、アナクロニズム、もしくは、権力的、そのようなネガティブなイメージを自動的に思い描いてしまうのです。

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社会は重大な危機的状況にある

私はこの国は現在の危機的な状況にある事を、次のように例えています。

「自分の好きな彼女が、弱い者いじめをする、法律を守らない、それを、あなたは黙って見ていられますか?」。

愛するものが好ましくない行動をしているときこそ、たとえ嫌われてもそれを糺すのが本来のあり方ではないでしょうか。

この国は危機的状況にあると思います。ですから、私が主張している事は、あくまでも現在の社会問題の提起、そして、それを正常な方向に向けていく事であって、批判のための批判ではありません。

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「愛国」ではなく、あるべき社会に正すためにどうすべきか

別にそこに、ご大層に自称愛国者、忠国、それらの為政者側のレッテルのフレーズは必要ありません。

一人一人が声を上げて社会のおかしな部分を主張し、問題提起していく、それこそが本当に社会を良い方向に正して行くための行動なのではないでしょうか。社会を考える、その真摯な行為に呼び名はさして重要ではありません。

結局、いわゆるところの「愛国者」が犯した最大最悪の過ちとは、社会体制を考える時に「愛国」というフレーズを思考停止の伴う、あまりにも陳腐かつ、胡散臭いものにしてしまった事ではないでしょうか。

本来、愛国とは右派のみが使うフレーズではない、と私は考えています。

愛国という言葉はリベラルが使ってもいい良い言葉ではあったのではないでしょうか。無論、「国際共産主義者」は使えないでしょうけれど。

しかし、あまりにも負のイメージがつきすぎた為、リベラルはその言葉を使う事ができません。そのため「郷土愛」や「社会を正す」という言葉を私は用いています。

右派と左派が共通して考える事のできるテーマを見出す事、それは社会問題を、よりリアルな問題として扱うために絶対的に必要な考え方なのかも知れません。

実際、差別的な人物がが「愛国」と言う場合、「若者はお国のためにイラクで潔く散ってこい!」などと、本気で言いかねない気がしてなりません。

結局、今の社会状態では「愛国」というフレーズを出す時点で、もはや陳腐な考えに落ちいっていると言わざるを得ません。無論、それは「愛国、愛国」と吹聴してきた者達にすべての責任があるのですが。

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