愛国とAKBは非常に似ている AKBから見るシステムとしての「愛国」

By | 2017年4月4日
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AKBと愛国

AKB48というのですか?先日テレビを見ていたのですが、全員顔が同じような、誰が誰だかわからないような集団が出てきたと思ったらAKB48でした

このAKB48のファン、すなわち購買層の彼らを見ていると、「あなた達利用されていますよ」と、本当に心から忠告したくなってしまうような人々です。

このAKB48のファン達を見て、これらの人々はネット右翼と呼ばれる人々と一定程度重なる部分があるように思えてなりません。

愛国者もAKB48のファンも、どちらもとも、「国」や「AKBメンバー」をを愛したとしても、その見返りを与えられる事は全くありません。AKB48のファンはCDを買い、握手券を手に入れる事により一時的な快楽を得るのかも知れませんが。

または、AKB48のメンバー達は金銭と引き換えに一時的な微笑みを彼らに与えるのかも知れません。しかし、それは「商売としての見返り」ですし、また、「愛国商売」という言葉もあるように、「愛国」というフレーズの前には森友学園を見るまでもなく、得体の知れぬカネがついてまわるものです。

愛しても愛されません

愛国という言葉も、アイドルとの恋愛関係と極めて類似していると言えるでしょう。アイドルも国も、愛したとしても、それには絶対に見返りは存在せず、アイドルの場合は彼らの資金が尽きるまで、国の場合は最悪、自分の命まで使い捨てにされるだけなのですが。

また、それらに熱を入れ込むことによって、一時的な高揚感を得ることができますが、その高揚感に陶酔し、それらをより多く自分の人生に取り入れるために、本屋、そして講演会、もしくはコンサートなどのイベントに参加するのも同じことです。

しかし、それが共通して言えることは、それらを購入して参加したところで自分の人生にとって何一つメリットはないどころか、周囲の人々からは白眼視されているという状態なのです。双方とも一定程度の知識としての嗜みであればよいのかもしれません。しかし、それらの過剰摂取は人生を破壊しかねません。

自らで考えることを放棄した者達

また、両者に共通する違和感は、自分で考えることを放棄したことではないでしょうか。アイドルも国家も、その存在を絶対的な「正義」と認識し、そこに投げられる反対意見もしくは疑問意見を、それをあたかも自分に向けられた批判であるかのように認識し、それを守る事を至上命題、もしくは自分の人生の目的としてしまうのです。

つまり、両者とも、誰かが用意したテーマそれを論じているだけなのです。それは、すなわち、考えるテーマのガイドを与えてもらっているようなものです。双方とも、自ら考えることを放棄させ、一時的な陶酔のための刺激を与え続ける「商売」と言えるでしょう。

所詮、誰かが作った存在について、それを守るということ自体が無駄な行為であると私は考えています。つまり、アイドルについて考えるという事は、それは彼らのお客として、彼らの存在の補強を行っている事にすぎません。握手券付きのCD?それらを購入したカネは、そのアイドルの懐に入るのではなく、彼女らを作り、管理している者たちの懐へと入るのです。

そもそも、アイドルグループというのはそれは一種の「架空の偶像」のようなものであり、それを愛でることについて、一定の理解は可能ですが、しかし、それはあくまでも一時の目の保養程度のものであり、それに熱を入れる事は人生にとって何がメリットを生じさせるものではないでしょう。

また愛国というものについて、これは現在の問題を全く認識せず、時の為政者のプロパガンダに便乗し、そして現在の社会をより悪化させて行く、加害者としての一体感を得ているのかもしれません。

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