プロネトウヨ文学、プロネトウヨ文化を考える、プロレタリアではなく

By | 2017年8月24日

かつてプロレタリア文学、すなわちロシア革命などにモロに影響された暴力的左翼思想が背景にある文学がありましたが、それらの復活としてのプロネトウヨ文学、その他のプロネトウヨ文化について考えてみたいと思います。

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※今回の記事は「まじめな冗談」です。念のため。

プロネトウヨ文学

山ほどありますね。思想的自慰行為ですね。彼らは事実を針小棒大に解釈し、新事実を発見したかの如く、日本を賛美する手法が一般的です。小さな事実だけを大きく取り上げていればそれで文学になってしまうのですから。

また、これらの手法で「世界中で日本人が先進国の国家として尊敬されている」などという自画自賛の文章としてネット上には満ち溢れていますね。

常識的な考えがあるのであれば、今の衰退する日本において、どのようにすれば、その衰退を止めることができるのか、どのようにすれば社会問題を解消することができるのか、との議論を行うべきであるにもかかわらず、延々と自画自賛と他国の批判を行っているのは、もはや何か病的な原因があるのかもしれません。

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プロネトウヨ映画

有りますね。直接タイトルは上げませんが、特攻隊員を賛美する映画などがありますね。

そんな者たちはもし次の対戦が起こった時には自分はどこかに雲隠れする、もしくは先の対戦でそうであったように、やたらと好戦的な新聞記事を垂れ流すのでしょう。

プロネトウヨ美術

あまりないですね。 あえて言うならば日本賛美雑誌のイラストレータ達でしょうか?まあ、食い詰めてそこに「行かざるを得ない」人々が大多数なのでしょうけれど。

正直そう言った日本を自画自賛する雑誌などにイラストなどが使われたとして、それが経歴として思えるのであれば、それはそれで思想的には幸せかもしれませんが、まあ私は少なくともそういった雑誌に使われたイラストレーター人たちは、そのことによって業績に傷がついていないのかと、他人ごとながら心配になってしまいますね。

プロネトウヨ演劇

ないですね。 プロネトウヨの裾野が広がっておりません。

無理やり解釈してしまうならば街頭でネット右翼達が、実力行使と言う名のヘイトスピーチを外国人街などで行う行為は、演劇的行為と言えるかもしれません。

左翼のプロレタリア演劇が、左翼思想が背景にあったとしても、観衆に一定の考える動機にもたらすのに対し、ネット右翼の行う「抗議行動」と称する喜劇もしくはお笑いパフォーマンスは、一般の人々に対し極度の苛立ちと失笑のみを与えるものに過ぎません。

まあ、演劇とは「それなりの知性」を持っていないと演劇そのものの存在意義を理解できないですからね…。日本バンザイバンザイとお題目を唱えているだけの知性では、成り立つのは難しいでしょう。

プロネトウヨ新聞

御用新聞でしょう。
「私の見解は読売新聞を読めばわかる」といった首相がいましたが、いますが、もちろん産経新聞もそうですが、ですが彼らは職業意識においてネット右翼的な発言をしているのでしょう。

そうすることによって勇ましい雰囲気を作り出し、衰退する日本を直視させないことを根底から望んでいるのかもしれません。

それは言うまでもなく先の対戦において日本が本土爆撃をされているという悲劇的な状況であるにも関わらず、「本土決戦」などと言い換え、そして多くの若者を犬死にさせた政府を無条件に肯定した愚劣なる報道体制と全く同じですが。

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