
承認欲求という厄介な感情
人間の厄介な感情として承認欲求があります。それは自分が社会的に認められたい、
さまざまな人に褒められたい、そして、周りの者からが賞賛されたい、などそれは通常子供の頃、誰もが持っている感覚で、それは社会経験を通じて普通は減っていくはずですが、なかなか減らない人もいるようです。
それが一番わかりやすい例としては、インターネットで何10万円稼ぎました、などのような事を言っている人々ではないでしょうか。
正確には、そのような事を言っている人は情報商材を売りつけようとする者達、それらのうたい文句に引っかかる者たちと、彼らを待ち受けている人々、両方共が承認欲求の権化であると思のですが。
ブログを書く事、これは私は全然そうではないのですが、お金を儲ける、そして、中には自分が承認されたい、すなわち承認欲求が根本としてある者が存在するのではないかと考えます。
もしくはその両方が混在しているからこそ、問題の本質が見えにくくなっているのではないでしょうか。
つまり、インターネットとは、承認欲求の満たされぬものを補完する場としての役割を「好ましくない」手法として担っている事になります。
ちなみに私は努力をしたからといって、それが必ずしも実るなどとは思っていません。成功とは、それは時の運、もしくは時の流れ者が絶対的に存在します。
努力をする行為、それ自体が自分が楽しいと思うのであれば、現実世界で努力をすれば良いですし、それが楽しくないと思うのであれば、別の方面での努力をすべきと私は考えています。それは、インターネットでの自己顕示と承認欲求とは全く異なる場所であるべきです。
承認ではなく主張を
インターネット上での承認欲求を行う者の考え方の根底には、承認欲求は自分で満たされないから、それを第三者によって賞賛される事に、もしくは、第三者から見た自分の存在が重要であるかの様に振る舞いをする事によって、自分の精神的な部分を満たそうとする思想が根底にあるのでしょう。
しかし、それが満たされたとしても、その先に待ち受けるのは、更なる承認欲求の増加ではないでしょうか。つまり、満たされる事によって、さらに大きな欲望が出てくるのです。しかも、それは自分の精神内面における渇望であり、それは、もはや病的な側面を含なのでいる考え方すら可能でしょう。
つまり、それらの承認欲求とは物欲と同じような考え方が可能ではないでしょうか。自分の事をすごいと言ってくれる者達もしくは自分の存在を無条件に肯定してくれる者それらを彼らは求めているのかもしれません。
本来、ウェブは何を主張しても良い場所なのですから、自分の書きたいことをかけばよいのです。そこに厄介な承認欲求は入れるべきではありません。
生き方そのものの問題としての承認欲求
それらの承認欲求がなぜ生じてしまうか、それは育ち方に原因があるのでしょう。
育ち方において、親が自分の子供を支配しようとする、または親に全く自分の努力が認められなかった、そのような事をこじらせると、承認欲求が成人後も大きな存在感を示してしまうのでしょう。
無論、それは20代の若者がそのような承認欲求を持っているのは、それはある意味では自然な事です。しかし、それらの承認欲求者は社会に揉まれ、自分がどのような能力を持っているか、もしくは、どのような能力を持っていないのかを自分で考え、その結果として、社会に対する折り合いとしての自分の興味分野を構成していくべきです。
それができない者達が、インターネットにおいて自己承認欲求を振りまいているのでしょう。
ウェブが悪化させる承認欲求
それをインターネットの世界で、わかり易い例として、ブロガー達が自分達はこんなに凄いことを実行している、こんなにもうけている、などと主張しますが、それは自分の承認欲求をweb不特定多数の者に押し付けている、または商売の手法としてそのような自分のすごさを顕示する事により、新しい顧客を取得しようとする意図が根底にあるのでしょう。
また、それに反応するものも同様に承認欲求を持っているのでしょう。満たされない自分をインターネットが補完する、と考えているのでしょう。
インターネット、ブログやyoutubeなど、それは今まで社会に受け入れられなかった、小さな声の者たちが、あたかも、それが普遍的な考えであるかの様に、同じ考えを持った者同士を獲得する事において常に利便性があります。
しかし、その「普遍的であるかのように見える」もしくは「見させる」ことこそ、ネットの負の部分として捉えるべきではないでしょうか。
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