なぜ学校行事は行われるか。修学旅行、運動会等の学校行政と教員の本音

By | 2019年6月15日

なぜ学校は行事を行いたがるのか

一番わかりやすい例として修学旅行があります。これは教員が旅行業者からリベートを受け取るため、と考えるならば、なぜ、毎年毎年決まった場所に行くか、という疑問について、非常に理解しやすくなるのではないでしょうか。

なぜ毎年業者が変わらないのでしょう?

毎年、使うバス、毎年行く旅館が決まっている、毎年使う旅行業者が決まっている、これは両者の癒着を疑うには十分です。

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修学旅行は教員にとってのボーナス

私は修学旅行は全然楽しいものだとは思いません。そんな事をするのであれば、自分一人でどこかに旅行に行き、そしてゆっくりとした時間を過ごしたい、とさえ当時から思っていました。

貧困問題などで修学旅行に行く事ができない、などの問題が取り上げられる事がありますが、そもそも修学旅行自体が必要な行事なのでしょうか。

むしろ勉学のために旅行をするのであれば、中学生以上であれば青春18きっぷを持たせ、自分の好きな場所に行かせる、しかも、必要最低限の金額で、などのような旅行をさせるほうが、社会の醜さを経験させる意味で、よほど意義があるような気が私はします。

無論、女子の場合であれば、治安の悪化への対策などからグループで行動させる必要はあるでしょうけれど、自分の身を護る事も学習の一つです。まあ、事なかれ主義の教員がそんな事は絶対にさせないでしょうけれど。自分の担任期間「だけ」は何が何でも問題を起こさないで過ごすことに血眼になっているのでしょうから。

教員が旅行業者や旅館業者からリベートを受け取る際には、商品券などで行い「現金の授受ではない」とごまかすのでしょうが、それらのリベートは教員が変わったとしても毎年引き継がれている、と思うのは私だけでしょうか?

修学旅行は毎年、大量の生徒がホテル、その土産物屋を使うのですから、非常に大きな利権である事は簡単に理解できる事です。

もちろん、そんな金品を受け取っていない清廉潔白な教員の方が多いでしょうが。

しかしその清廉潔白な教員にしたところで、なぜ毎年、毎年同じような修学旅行が存続されるのか? それを考えた場合、結局、毎年行っていることであるから、その前例を変えることによって自分が大変な目にあいたくない、または校内で波風立をてたくないという、「教育者の前に職業としての教員」としての、ことなかれ主義の本音が透けて見えるでしょう。

これは決して修学旅行という行事に限ったことではなく、学校の中全てに言えることですが。

軍隊的行動の発露としての運動会

もうひとつ、わかりやすい例が運動会です。

これは日本の軍隊式行動、つまり、集団行動を無理やり身につけさせるための行事です。小学校1年から高校3年生まで12回もある、本当に意味不明の行事です。今のご時世において集団行動の訓練とは、一体何がしたいのでしょう。

その一例として、今の日本の教育の成り立ちは、日本がかつて製造を大国であった時代、すなわち今から30年ほど前は日本の中で電化製品や自動車などの、日常的に使うほとんどの物が国内で製造されていました。

その製造現場で物言わぬイエスマン、つまり、毎日、同じ行動を繰り返す、そんな人々を作り出すための従順にするための訓練として教育は位置づけられていました。

とはいえ、時代錯誤も甚だしい考え方ですが。もう、今は昔のベルトコンベアでの製造業のような時代ではないですから。

運動会は現在の教育の劣化の非常にわかりやすい一例でしょう。運動会の一体何が生産的な行為なのでしょうか?

走ったり飛んだり、確かにそれをプロスポーツを行う事を目指す者はそのような事を頑張ればいいと思います。しかし、そうでもない者を強制的に巻き込み、応援団やプラカードなどを行う。それは共産主義の全体国家を思わせるような光景とさえ言えるでしょう。

確かにスポーツの大切さは理解します。事実、私もサッカーなどの観戦は楽しいと思いますから。

しかし、それを強制参加の形で、ましてや集団主義訓練のような運動会などを行う必要は全くありません。

スポーツにしたところで必ずしも運動をするだけではなく、それを楽しむ行為、すなわち「観戦術」としての体育科目であっても良いのかもしれません。

例えばサッカーの楽しい観戦の仕方、バスケットの楽しい観戦の仕方、そんなことを教えるのが、本当の意味で豊かな国になるために、重要な行為であると考えます

体育との位置づけでの軍隊的行動、上の者の意見に絶対服従させる、自分の頭で考えさせない事を目指す社会のドス黒い思惑が透けて見える、と私は考えてしまいます。

もう学校行事そのものが不要です

とはいえ、学校など、勉強さえしてれば良い場所ではないでしょうか。

それを特定の思想にもとづき、特定の行動様式に生徒を染め上げようとするのはアナクロニズムも甚だしいところです。

そもそも教員自体が、閉じられた世界での価値観を疑うことのない人々と思わざるを得ません。

彼らそのものがアナクロニズムに生きる者であり、そこに閉じ込められる、危険な存在と認識したほうが早いかもしれません。

若くして、まともに社会の波風を受けること無く、教員になり「先生」と互いに呼び合う空間に一般の働く人々の感覚が反映されているとは到底考えられません。

いかにして、それらの行事と対応するべきか

とはいえ、実際にそれらの修学旅行や運動会に表立って反旗を翻すことは難しいかもしれません。

だからこそを姑息な手段、例えば風邪を引いて参加できない、もしくは練習などに徹底的に手抜きをする、または「明らかに嫌がって練習に参加をしている」、という態度を見せる、などの消極的な対応策での意見表明をすることが重要でしょう。

明らかにイヤイヤ連取をしている光景を見させれられる教員たちは精神的な負担は増えるでしょうから。

また、そもそも論となってしまいますが、修学旅行や運動会といったものがどのような状態で行われているのかを、入学前に調べるておき、そこに向けてあらゆる回避方法を対策、もしくはそれらの下らない行事のない学校を選ぶ事も大いにアリでしょう。

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