学校という異常空間 本来あるべき教育とはなにかを根底から疑う

By | 2018年3月15日
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集団主義を強要し「躾ける」教育の惨状

学校の教育の何がおかしいかを考えた場合、結局クラスという数十名の固定された枠組みの中に、一年、最悪の場合3年間も固定したまま10代の者達を詰め込む行為、それ自体が異常性を含んだものではないか、と考えるのです。

無論その長線上としての管理教育があります。管理教育で一番有名なの愛知県と言われます。愛知県ではこれは言うまでもなく、巨大な自動車メーカーが存在しますが、そ自動車メーカーや、その下請けの工場で使うための

「何も文句を言わない、何も考えない」

便利なスタッフを作るために個性を完全になくすかのような教育を行う、それを管理教育というのです。

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自立性を奪う行為としての「空気を読む」教育

確かに小学校低学年程度までは教師が日常生活の「いろは」などを含め、つきっきりで教える必要は理解します。

しかし、そこで求められるのは従順たる生徒を作り出す事ではなく、自発的な活動を求める生徒を教え導くことが求められるのではないででしょうか。

つまり、小学校も高学年ともなれば、自分で一定の授業を選択するなどの、小中高校においても単位制を取り入れるべきである、と私は考えます。

自分が卒業するためには、何の単位をどれだけ取るか。もちろん、必修と選択の双方を用意すべきでしょう。

無論、義務教育においては留年などは行うべきではないかも知れませんが。

今の学校教育制度とは、「勉強の嫌いな者」も一定数確実に存在します。しかし、では勉強の嫌いな者は社会に全く役に立たないのか? そんな事はありません。勉強の嫌いな者であっても、図画工作などに秀でている、また、家庭科や技術科において非常に良い優秀な成績を修める者もいます。

そのような「勉強以外のことが好きな子どもたち」が自分の好きな事を行う事のできるできる環境を、自分で選択ができるような機会をもう少し早い時期から取り入れてもいいのかも知れません。

もちろん、義務教育としての最低限の必要な知識の詰め込みは絶対的に必要でしょう。

しかし、その知識の詰め込みにしたところで現在の「記憶」が至上命題的な目的であるかのような教育は改めるべきでしょう。

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事なかれ主義の教師に何ができるのだろうか

また、もう一つ言える事は、教師の事なかれ主義に押さえつけられる生徒達の存在という問題ではないでしょうか。

おそらくWebの中では教員=日教組のイメージが異常に強いのかもしれません。

しかし、実際のところに日教組の教師とは現在においては、いわゆる「底辺校」に集められる事が多く、思想的な影響を生徒に与え得る状況にはないのが現実的な状況です。

それを日教組という存在その者を、ことさらクローズアップする事によって、偏向教育が行われているというイメージを植え付けるための存在にすぎないのではないかと考えざるを得ません。

むしろ逆に、自分の責任を問われたくないがために、生徒に「問題行動」を起こさないように監視をする、それ自体が教育であると勘違いした教員等が増加した結果として管理教育が行われている事になります。

しかし、今、少子高齢化が叫ばれている中で、そのような個性をなくすような教育はもはや限界に来ているのは明白な事でしょう。

その一例としては、「先進国」でありながら、パソコンやスマホや金融で何らメインストリームとなる製品を生み出せない、状況。せいぜい誇れるのは自動車くらいでしょうか。その自動車にしたところで、もはやそれは「日本製」かどうかは疑わしい部分が多々ありますが。

それは管理教育によって作られたものと考えます。

それよりは自分の好きな事を、もしくは、それをいかにして職業スキルに結びつけていくかの教育に着眼するべき時期となっているのかも知れません。

もちろん、個性という概念を勘違いする者達が多数存在する事も理解できます。

その一例として、個性を勘違いした者が自称「○○ブロガー」などと言いつつ、顔出し実名で、後戻りのできない若さの使い方をしてしまう者が多数存在する事も事実ですし、決して私はそれらの行為が「個性」で有るとは思えません。

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一定程度存在する不良生徒に対してどのように対処するべきなのか。

無論、「自由」を履き違えるものも存在するでしょう。特に現在のいじめ問題は、社会状況の末端としての家庭環境と教師の事なかれ主義によるものです。

それらを考えた場合、学校に、しかるべき権限のある者を常駐させる、つまり警察のOBなどを常駐させる考え方が良いのではないでしょかう。

現代では教師たちの事なかれ主義によって学校内でのいじめなどが黙殺されている状況がありますが、それはそれは現在の教育制度で、学校での生徒の問題行動が教師のマイナス評価につながる事が問題の根底としてあります。

しかし、学校内においては「必ずいじめは存在する」と考えるべきでしょう。

それは様々な家庭環境や、様々な考え方を持った生徒が無作為に集まるのですから、必ずいじめは存在すると考え、そして、そこでいじめの芽を摘む、その構造こそが教師の本来の役目であると考え方を改めるべきです。

そのように改めることによって、いじめを摘発した教師が評価されるのですから、現在の社会現在の教育におけるパラダイムシフトとも言えるような状態になるんでしょう。そして、それは生徒達にとって、より良い学びやすい学校という存在になるのではないでしょうか。それらはひいては社会に活力を与えるものです。

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