社会運動とはほとんど無意味な行為かもしれない、ひねくれリベラルとして

By | 2022年3月3日

この話題は私のブログで書いてしまう事は、これまで主張している事との著しい矛盾と捉えられるかもしれません。いわゆる、リベラル陣営から見ると「何言ってんだこいつ?」と思われるかも知れません。

別に私の、このブログは社会的に何かを変えようとする気は、さらさらありません。

また、誰かの方顔色を伺いながら書く必要もないので言いたい事を言います。

結局、何らかの政治的な変化を求めようとして行う政治活動は、ほとんどの場合において、何のも意味ではないかと考えてしまうのです。

それどころか、その政治活動自体が目的化してしまう事すら、あるのではないかと思います。

もちろん、ここではどの政党かの名指しは一切書くつもりはありませんが、結局、その政党の運動にはまり込む事によって人間関係が限定され、そして、その運動を止める事によってすべての人間関係を失ってしまう、サンクコストとでもいいましょうか。

その政治的な運動が必ずしも社会の改善に役に立っているのではない、と気づいたときに抜けるに抜けられない状況に陥ってしまう、という事があるのではないでしょうか。

とはいえ、すべての社会運動において意味がないというつもりはありません。その1つの成功例として言えるのはNHKの集金活動の中止かもしれません。

国政選挙に出て、そして、耳目を引くような活動を行う、その結果としてNHK訪問による集金割をなくなった。

これは1つの成果とは言えるでしょう。

しかし、国政選挙に出るだけで三百万円の最低の供託金が必要であり、おそらく全体で見ると数億円のお金が動いた状態です。

その金銭力とエネルギーは称賛に値します。

ただ、私は社会を変える必要がない、などとは全く思いません。とは言え社会を変える、という運動に身を任せるエネルギーがあれば、まずは自分の生活を改善する事のほうが早いのかも知れません。

社会の改善の前に自分の生活を改善する、今の仕事が早気に入らないのであれば転職活動する、または副業を始める。

生活のダウングレードやダウンサイジングを行う、それらの自分の人生に対する自分の取り組みという方がよほど迅速な、人生に対する改善効果というものがあると思えてなりません。

それらの行動を行った後に、それでもなお、社会に対する改善要求があるのであれば自分の収入の範囲でコツコツと改善を促す活動をすればよいのかもしれません。

対象の人に直接資金的などの寄付活動という方法が一番穏健な気もします。

このブログではあまり書きませんが、結局、日本社会は島国で非常に物の見方も狭く、また、独特の言語であるがゆえに海外からも注目されない、または、発信能力も弱いと状態です。

そのような、そもそもにおいて「独特な風習と文化」がある中で、その社会は根本的に保守的な状態であり、それを変えようとする場合、凄まじいエネルギーが必要とされる、もしくは、凄まじい社会的制裁を受ける可能性がある事をまず考えておくべきではないでしょうか。

社会を変えるぐらいであれば自分の生活を変えるほうがよほど楽です。そして。また、人生というものは長いように見えて意外に短いものです。

それらの社会運動を数十年以上にわたって続け、そして、結局、何も残らなかったという人を何人も知っています。

果たして、そんな人生が本当に幸せなのか? 自分の自己満足だけに生きる事が本当に幸せなのか? そして、それが端から見れば、まったく幸せには全く見えないという状況です。

それって社会運動と言いつつ、実は宗教情熱に基づく活動ではないのですか?と、思ってしまう私が、そこに存在するのです。

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