痴呆老人と安楽死、よりよい最期を迎えるための選択肢の必要性と問題

By | 2019年1月24日

痴呆老人の生きる意味

私もボケ老人がなぜ、生きているのかを、いまだに理解する事ができません。

確かに彼らに人権がある事はよく理解します。しかし、では、自らが醜態を晒しながら生きる事が、それが果たして幸せであると思えるのか? そう問われた時に私はノーであると答えます。

この国はサービス残業やブラック企業を見るように基本的人権の尊重を全く行っていません。しかし、それにも関わらず、ボケ老人の介護を個人の責任に押し付け、その結果、親族が精神的に耐えられなくなり、妻や夫、そして、息子や娘がボケ老人を殺めた時、罪として問われるのです。

もちろん、温情的な判決が多数出ている事は理解できますが。

それらの基本的人権が疑われる、この国においてボケ老人の生きる意味とは、医療利権や介護利権、それらの「持てる者」が金を収集するための手段ではないのか? とさえ考えてしまうのです。

この国は戦後1945年付近におけるベビーブーマーの増加により、彼らが団塊の世代として、バブルの崩壊まで経済成長を続けてきました。しかし、現在はどうでしょうか。

社会の衰退は誰の目にも明らかであるにもかかわらず、未だに様々な「持てる者」の利権を死守しようとする。それどころか強化しているようにさえ見えます。

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自死を選べる社会の必要性

究極的な議論として書きますが、一定の年齢に達した者、60歳でも70歳でも75歳でもいいと思うのですが、一定の年齢に達した場合、かつ、自分が痴呆症状があるとわかった場合、苦痛のない安らかな最期を選ぶ事のできる社会、または、法制度を作るべきではないでしょうか。

それをもって基本的人権の放棄、または、残酷であると「人権派」の人々は主張するのでしょう。

しかし、それらの人々は、一体、現在の社会者を本当に理解しているのでしょうか。

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「人権」が胡散臭く聞こえる社会

言うまでもなく現代の社会はブラック企業やサービス残業、そして、低賃金の使い捨て労働、就職氷河期の放置を行っています。

また、当の老人たちについて言えば、政府がかつて約束していた年金の支払いの先延ばし、を行い、事実上の年金破綻の前触れとさ言えるでしょう。

そのように人権が蹂躙されている国家において、ボケ老人の人権の大切さ云々と主張したところで、現在の利権を死守するための空虚な議論にしか聞こえないのです。

ボケ老人の自死や安楽死に社会や国家が介入する行為について、国際社会からの批判は当然湧き上がるでしょう。しかし、そのような時、日本はこう言うべきです。

「我々は先進国ごっこをしている先進国ヅラをした発展途上国にすぎないのだから、当然、人権感覚も発展途上国並みの人権感覚しかないのです。

そのような発展途上国が破綻を回避するために、やむを得ず痴呆老人の自死を補助している行為なのだから、他の『本当の』先進国はとやかく言わないでくれ。」

と、主張すれば良いのです。

事実、人権感覚は発展途上国並みなのですから。

なんなら、いわゆるがん患者などの苦痛の除去を目的とした実施における延命措置の中止を国家が進んで推奨、もしくは、認証し、それらの実施を求める者達にとって最後の希望とも言える社会となるべきかも知れません。

事実今の日本では将来的に展望のある産業分野など何一つないのですから。

自死の選べる国日本、それを全世界に大々的にアピールすることも良いのではないでしょうか。

インバウンド需要だか外国人観光客重要だか知りませんが、そんな上っ面の観光資源ではなく、「人生の最後を締めくくる国、廻転生をアジアの極東の国、日本より」で良いのではないでしょか。

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幸せな最後を迎えるために

自分が一定の年齢に達し痴呆症となり、自己判断ができなくなった際、何らかのきっかけで入院した際、本人が自覚のないままに最後を迎えることが不幸であるとは思いません。

もちろん、あらかじめ、それらの制度利用に賛同した場合は、の条件付きになりますが、ような人生の終わり方があっても良いのではないか、とさえ思ってしまうのです。

とはいえ、これは本来成熟した社会においてなし得るべき社会の破綻の回避のための行動であり、現在のように政治家や公務員が血税を貪り、そして、豊かな者は益々豊かに貧しき者は果てしなきどん底の貧しさに叩き込まれるような社会においては、非常に困難な選択肢でしょう。

もし、このような「人生に対する最後の選択」を社会全体が議論が行え、そして、社会腐敗がなくなる社会が到来する時期とは、もしかすると、アンチエイジングの医療技術がより発達し、また、老人性痴呆症なども治療しうるだけの科学技術が発達した社会が到来する時期とさほど変わらないのかも知れません。

この議論は一見、暴論のように聞こえると思います。しかし、より良い死を迎えるために必要な行為とは、より良い生きる行為です。

今の日本を見てみてサービス残業やブラック企業として子育てを自己責任と罵る社会的風潮、拡大する格差、それらを考えた場合、とても、この国が生きやすい国であるとは思えません。もちろん、治安が比較的安定している事は理解します。

そのような国家において、せめて自分の最後ぐらいは自分で決める事のできる社会は、今の社会よりも幾分とましな社会のあり方ではないでしょうか。

もちろん、この国では医療利権や福祉利権を持つ者、又は上っ面の「人権派」などが、この議論の「横暴さ」を声高に主張するのでしょうけれども。

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