私は老人介護という制度そのものが、もはや根底から発想の転換をするべき時期に来ていると考えます。
それは現在の様な、痴呆老人の延命を第一として介護保険を運営するのではなく、痴呆老人には安楽死という現実的なオプションが存在して然るべきであると考えます。
本当に老人たちは痴呆状態になり、「私」というものがコントロールできなくなった状態においても「生」を望んでいるのか?それを議論すべきでしょう。無論、そこには「国家が国民の人生に関与する」という大問題を提起することになりますが、少なくとも私は「安楽死という選択」を考えることは否定されるべきではないと考えます。
その上で、例えば相続税の割増や財産の切り崩し、などの代償として行われる介護という「選択肢」として存在すればいいのではないかと考えています。
しかし、上記の試みにおいても一定程度の介護は残ってしまうことになります。その場合、介護でどのように労働環境を改善すればいいのかを書いてゆこうと思います。
新しい介護で用いるべき手法
パワードスーツを用いる
パワードスーツを用いることによって介護者の肉体的負担を減らすことができます。何が悲しくて赤の他人の老人を抱きあげねばならないのでしょうか?
防臭マスク
何が悲しくて他人の下の世話をしないといけないのでしょうか?
そのような状況下においては当然、介護をする者の不快感を減らすために防臭マスクをすることは当然であると考えます。
痴呆、徘徊する老人に対して拘束介護を行う
人権、人権、と錦の御旗のように「介護」関係者は繰り返しますが、それは業界の移行であって、末端で働く人々の代弁では無いのですよね。
ブロック状固形食などの手間の軽減
食事などの世話については、例えばカロリーメイト状のブロックによる食事、もしくはオートミール状の食事などに、全ての栄養素を入れた流動食に近い食事などを与え、人出を減らすことが考えられます。
一切の治療を行わない
治療、ではなく、痛みを緩和し、「より人間らしい自然な最期」を迎えさせることが老人施設の役目、とすべきではないでしょうか。
老人介護の人的リソースを検討すべき時期に来ている。
今こそ、徹底的に労時介護の人的リソースを切り詰める発想を検討するべき時期ではないでしょうか。
介護におけるリソースの配分というのは明らかに社会もしくは国家にとってマイナスの影響があると思いますし、ましてや若い将来性のある人材を、これから死んでいくだけの老人に対して、介護という職業につけるのは言語道断の考えであると私は考えます。
これらの意見を持って、それが非人道的である、もしくは非人間的であるなどと寝言を吐く人が多数出てくるのだと思いますが、そうであれば、まずそのような寝言を吐く人が介護に当たれば良いのではないでしょうか。
介護という美談もしくは介護という思想的、政治的な聖域によって守られた現場の介護制度を徹底的に見直おさなければ、この国は老人というデッドウェイトによって沈んでしまうことでしょう。
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