むしろ、戦争をしたい者達は、戦争を自分たちで行うべきではないのか?

By | 2017年6月8日
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平和な話し合いは「然るべき背景」があるからこそ可能

私はこのブログについて、リベラルとして記述しているのですが、実は私は核兵器などの保有については、決してそれを絶対的には反対する立場ではありません。

それらの議論そのものは禁じられるべきではないと思います。

なぜならば、平和的な議論、つまり、話し合い話合いの前提となる条件が存在しなければ、平和的な話し合いなど行う行う事ができないからです。

相手が拳銃を自分に突きつけている状態において、こちらが丸腰の状態で、いくら平和を主張する議論をしたところで、それは全くの無意味な行動に過ぎません。

そのような事態にならないために、しかるべき話し合いのための実力措置の背景が必要なのではないでしょうか。

もっとも、現在の自民党政権下においての、いわゆる軍事主義はコネと利権にまみれた代物でしではないのでしょうけれど。

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むしろ、「戦争をしたい者」はするべきでは?

むしろ私は戦争反対をとなえるつもりは全くありません。逆に戦争したい者はすればいいと思います。

ただ、それは徴兵制の形ではなく志願制として、「戦争をしたい者」のみが、すればいいと思います。日頃、口先で勇ましい事を言といるネット右翼、また、勇ましい事を言といるいわゆる右派論客の皆様、どうぞ戦争に行ってください。冗談ではないです。私は本気でそう思っています。

どこか絶海の孤島で、戦争をしたい者だけが集まり、「国家の代表」として、華々しく散ってください、と。

まあ、実際に戦争に起れば、彼は事絶対に戦場には行かないのでしょうけれど。それどころか、普段さんざん否定している憲法を持ち出し、「個人の権利を守れ」とか言い出すのでしょうね。

戦争の悲劇とは無関係な者が巻き込まれる事

戦争の悲劇とは、それは自分が望まない者が戦争に駆り出される事です。

では逆に、日頃から言論で戦争を望む者は戦争をすれば良い事、と私は思ってしまいます。言論とは口先だけではありません。それは自分の人生をかけ言論を行動と結びつけねばなりません。

誰も、それが三島由紀夫のように過激な行動をせよ、と主張している事ではありません。

日頃から、戦争もしくは第三国の人々を罵倒するのであれば、いざ戦争時になった場合、自分が進んで死地に赴く覚悟はあるのですか?ということを聞きたいのです。それが出来ないのであれば、好戦的な意見や口先だけはご大層な愛国主義などは今すぐ投げ捨てるべきでしょう。

それどころか、実際に戦争になったならば、現在の右派と呼ばれるような勇ましい言論を述べる者はどこかに雲隠れするのがオチでしょう。

無論、私個人は戦争を拒みますが。

戦争の悲劇は責任者が責任を取らない事

現在の首相のアベの祖父がA級戦犯である事はよく知られた事実ですが、このように戦争責任を取るところか政治家になり、挙げ句の果ては首相になり、その七光りとして孫が再び戦争するような国にしようとしている、そのような状況そのものが、もはや言語道断の戦争の責任のとり方のお粗末さを示しているものです。

そのような意味において戦争とは、無責任な、そして全く関係のない市井の市民が巻き込まれてしまうものなのです。

また、今、アベは憲法改正などと、わけのわからない事を言っていますが、そもそもA級戦犯の孫が憲法改正をしようとするその事自体がもはや国際的に見ればブラックジョークそのものと言えるでしょう。

残ったリベラル派が平和を築こう

ここまで無責任に好戦的な者達による戦争の推進とも捉えられない議論をしてきましたが、戦争は戦争をしたい者だけが行い、その後、残った平和主義者が平和的に話をすれば良いと思うのです。あくまでも極論ですが。

ともかく戦争など、それは政治的権力もしくは戦争で使われる兵器産業、それは財閥なぜですが、などが儲けるだけであり、一般の市市民はひたすら悲惨な目にあうだけです。

言論だけは忙しい保守の皆様は、戦争になったら自分達だけで勝手に戦争をしてください、というのがが私の意見です。

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